【番外編】

 法蔵菩薩と阿弥陀仏(129号より)

Q 「正信偈」に「法蔵菩薩、因位の時」とあります。観音菩薩や文殊菩薩という名前は聞いたことがあり、お姿を拝見したことがありますが、法蔵菩薩というお名前の菩薩さまは、あまり見かけたことがありません。いったいどんなお方なのですか。

A まず「菩薩」とは正確には「菩提薩埵」の略語です。「菩提(ボーディ)」とは「悟り」、「薩埵(サットヴァ)」とは「人びと」という意味ですから、「菩薩」とは「悟りを求めて、努め励む人びと」ということです。

 しかも、自らの悟りを求める(これを自利といいます)だけではなく、他の人びとを悟らせて、安楽ならしめようと願う(これを利他といいます)という心を発して努め励むのが「菩薩」とよばれる人びとなのです。

 自利・利他の心を発して努め励む人びとは、すべて「菩薩」とよばれるのですが、その菩薩の中には、はじめて「自利・利他」の心を発し(これを菩提心といいます)修行をはじめたばかりの菩薩(これを新発意の菩薩といいます)もあれば、すでに修行を重ねて、すぐれた徳を得ておられる、弥勒菩薩のような菩薩もおられます。また、悟りを開かれた仏さまのお徳である、智慧や慈悲の象徴とされる菩薩もあり、観音菩薩や文殊菩薩などは、まさにそのような菩薩です。

 さて、お尋ねの法蔵菩薩ですが、この菩薩さまは『仏説無量寿経』という経典に説かれる菩薩さまです。『仏説無量寿経』には、始めもわからないくらい遙か昔のこと、一人の国王が、世自在王仏という名の仏さまに出会い、人々を自在に救っていかれる尊いおすがたに感動し、国を捨て王位を棄てて、一介の修行者になられました。そしてお名前を「法蔵」と名のられたのです。

 法蔵菩薩は、世自在王仏のようなすぐれた仏さまになりたいと願われ、二百一十億にもおよぶ国土をくまなくご覧になり、そこに生きるすべての畏れ悩める人々の、大きな安らぎとなる仏となろうと決意されました。その誓いを実現するために、五劫という時間をかけて、四十八の大誓願を発し、兆載永劫という永い時間をかけて修行し、これらの願いをことごとく成就し、仏の功徳をすべての衆生の与えることのできる「阿弥陀」という名の仏さまになられた、と説かれています。つまり、「法蔵菩薩」が「阿弥陀」という名の仏さまになられたのです。

 なお、「五劫思惟の阿弥陀仏」という、修業時代の阿弥陀仏の姿をあらわしたた仏像があります。その特徴は独特な頭の形にあり、五劫思惟の姿を表しています。




 お釈迦さまと阿弥陀さま(128号より)

Q お釈迦さまは歴史上に誕生した仏さまですから、お釈迦さまを拝むのはわかりますが、阿弥陀さまは経典に説かれた架空の仏さまでしょう。なぜ、阿弥陀さまという架空の仏さまを拝むのですか。

A 現代的感覚からすれば、阿弥陀さまは「架空の仏さま」だと考える、というのも無理はありません。しかし、阿弥陀さまはただ単に「架空の仏さまである」と言い切れるでしょうか。

 お釈迦さまは歴史上に誕生した仏さまだから、お釈迦さまを拝むのはわかる、といわれますが、かりに今の時代にお釈迦さまが誕生されたとして、お悟りを開かれた心の内を知り、お敬いの心をもってお釈迦さまを拝むことが、はたして私たちにできるでしょうか。

 私たちには、他の人の心の内を本当に知りつくすことも、また自分の心の内を他の人にすべて伝えつくすことも、なかなかできません。まして、お悟りを開かれたお釈迦さまの心の内ともなれば、とても私たちにはかり知ることなどできないのではないでしょうか。

 ところで、映画やドラマを見て、涙を流したり、笑ったり、生きる力をもらったりすることはありませんか。私たちは、はるか昔から、物語によって、目には見えない心の世界を共有し、互いに励まし合ったり、喜びや悲しみを分かちあったりして生きてきました。

 お釈迦さまがお説きくださった阿弥陀さまも、けっして単なる「架空の仏さま」ではありません。お釈迦さまは、すべての人が、いつ、どこにいても、どんな状況の中にあっても、安心して生きられるように、智慧をもって人びとの心の闇を破り、慈悲をもって孤独な心を温かく包みこんでくださる、「無量寿」(限りなきいのち=アミターユス)と「無量光」(限りなきひかり=アミターバ)の徳を持った「阿弥陀(アミダ)」という仏さまをお説きくださったのです。

 阿弥陀さまは、たとえ私たちがそのすがたを見ることができなくても、その名を口にするとき、いつでも私が阿弥陀さまの救いの中にあると感じ取ることができるように、「よび声」となって私を守り、導いてくださる仏さまなのです。

 お釈迦さまの説かれた阿弥陀さまが、多くの方々に拝まれ、生きるよりどころとなったからこそ、私たちも安心して阿弥陀さまを拝ませていただけるのです。

 共命の鳥(127号より)




 前回、本堂お内陣の大前卓に描かれている六鳥についてお話しをしました。今回は六鳥の最後の「共命の鳥」にまつわるお話をご紹介したいと思います。上図のとおり「共命の鳥」は、一つの体に二つの頭があります。一頭はカルダといい、一頭はウパカルダと言いました。二つの頭はそれぞれ違った欲望を持ち、時には互いに相反することもありました。

 ある時、カルダはウパカルダが寝ているうちにおいしい実を食べました。ウパカルダにとっても利益があると思ったからです。ところが、そのことを知ったウパカルダは腹を立て、今度はカルダを眠らせて毒花を食べ、カルダを殺そうとたくらみます。

 目覚めたカルダは瀕死の状態で言いました。「ウパカルダの利益にもなると思って実を食べたのに、あなたはそれに対して憎しみの心をおこして毒花を食べました。怒りや愚痴にはまことの利益はありません」と。そして二頭ともに死んでしまったのです。

 この話は、本来はつながっているいのちであるにも関わらず、互いに自己中心的な考え方を主張することによって、結果として共に害を被るということの譬えとして説かれたものでした。

 ところで、「共命の鳥」はお釈迦さまが説かれた雪山の麓に住むという伝説上の鳥で、もともと『阿弥陀経』の原典には説かれていませんでした。しかし、この経を翻訳した鳩摩羅什には、「共命の鳥」の伝説を加えなければならないという強い思いがあったのです。

 時の王、呂光は鳩摩羅什を愛した王女のことを思い、鳩摩羅什に酒を飲ませ、王女と共に密室に閉じ込めました。はからずも戒律を破ってしまった彼は、還俗させられ、ついに王女との結婚を受け入れざるを得なくなりました。俗世に身を置き、人間の愚かさと弱さを知らされた鳩摩羅什にとって、「共命の鳥」の伝説は、極楽浄土を描くには欠かせないものとなっていくのでした。

 かつては互いに争っていた「共命の鳥」も、今は仲睦まじく飛び回っているという姿を描くことで、鳩摩羅什は極楽浄土の安らかさを説いたのです。

※このお話しは聞いているものと違う、と思われた方もあるかもしれません。また、共命の鳥が『阿弥陀経』の原典には出てこない、というのは本当か。などと疑問を持たれた方もあるのではないでしょうか。これらの点について補足をしておきます。なお、寺報の文字数を考えて、アレンジした部分があることもご承知おきください。

1、「共命の鳥」の話は、教学研究所のホームページにあるものを参考にさせていただきました。これはもともと、お釈迦さまが自分と提婆達多の関係について、お弟子に話されたお話なのだそうです。このことは字数の関係で寺報では省かせていただきました。

2、『阿弥陀経』の原典については、中央公論社刊『大乗仏典』巻六、浄土三部経を参考にさせていただきました。

3、鳩摩羅什のエピソードについては、仏教ウェブ講座の「鳩摩羅什とは」という項を参照し、少しアレンジさせていただきました。

鳩摩羅什の翻訳は単に文字通りに翻訳するのではなく、彼の仏教理解が色濃く反映されているのです。いま極楽浄土の鳥の名についても、彼の思いがあることを念頭に入れて文章を作成しました。