150号、12月26日発行

 無明の闇を破る智慧の光(150号より)

 帰ってゆくべき世界は
 今遇う光によって知らされる

   (2024年 「真宗教団連合カレンダー」1月の言葉)

 私たちはたしかに、いま、ここに、生きています。しかし、どこからやって来たかも、どこに向かって生きているのかも、まったく知らないまま生きています。しかも、そのことに何の疑問も持たずに、とりあえず毎日を過ごしている、というのが私たちの日常生活ではないでしょうか。

 そんな毎日を過ごしているとき、重い病気にかかったり、思わぬ事故に出遭ったり、人間関係がこわれて居場所を失ったりと、突然、嵐のように大きな苦しみや不安におそわれます。

 真実を見る眼を開かれた仏さまは、この世界は、自分の思いどおりにならないこと(苦)に出遭い、その苦しみに堪えていかなければならない、厳しい世界である、と見きわめられました。

 だからこそ、苦しみを抱えながらも、その苦しみを乗りこえていく道を、しっかりと聞き開いていかなければならない、と教えてくださったのです。
 親鸞聖人は「阿弥陀さまの名号(南無阿弥陀仏)は、渡りがたい海を渡してくださる大きな船であり、闇を破る智慧の光である」と教えてくださいました。そして「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」とお示しです。

 南無阿弥陀仏のおいわれを聞いて、今ここに届く仏さまの光を仰ぎつつ、帰るべき世界のある人生を、仏さまとともに歩んでいきたいと思います。 


 浄土の風に吹かれて(149号より)

私たちは目に見えるものは確かにあるもので、目に見えないもは「そんなもの、あるはずがない」と、その存在を否定しがちです。しかし、目には見えなくても、そのもののはたらきをとおして、その存在を知らされる、ということがあります。こんな詩をご存じでしょうか。

  誰が風を見たでしょう
  あなたも 私も 見やしない
  けれども 木の葉を揺るがせて
  風は通り過ぎてゆく

 「風」そのものは目に見えませんから、「風」というものを見た人はいないでしょう。しかし、木の葉が揺れるのを見て、風のはたらきを感じて、私たちは「風が吹いた」と言います。
 夏の日差しを受けると、私たちはつい「暑いなあ」と口にします。そんなとき、さわやかな風が頬にあたると、思わず「涼しいなあ」と口にします。「涼しいなあ」と口にしたのは私ですが、「涼しいなあ」と私に言わせたのは、私の頬に涼しさを届けた、目に見えない「風」でした。

 「阿弥陀さま」も「浄土」も、私たちの目で見ることはできません。しかし、「阿弥陀さま」は、私たちの身にはたらいて、つねに、私たちを「浄土」へと導いてくださっているのです。

 弥陀の名号となへつつ
  信心まことにうる人は
  憶念の心つねにして
  仏恩報ずるおもひあり

というお言葉は、親鸞聖人が、私たちにそのような阿弥陀さまのはたらきをお伝えくださるご和讃です。 
  
 嫌なことに出会ったら、つい愚痴をこぼしてしまうのが私たちの本性です。そんな私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出たとしたら、「私がお念仏をした」と思うかもしれませんが、実は、浄土から私の心に「南無阿弥陀仏(我にまかせよ、必ずたすける)」と風が吹いてきて、私の心を動かしたからだと、親鸞聖人はおっしゃいます。

 目には見えないからと、かたくなに存在を否定していた私の心を揺るがして、「南無阿弥陀仏(ありがとうございます。必ずたすかると、おまかせします)」と、阿弥陀さまに感謝する思いが、口にあらわれてくるのです。

 お寺でご法話を聞くということは、涼やかな阿弥陀さまの風が吹くところに、この身をあずけることなのです。


 浄土宗の真実義(148号より)

 今年は、親鸞聖人の御誕生八五〇年、立教開宗八〇〇年という記念すべき年にあたっています。親鸞聖人は、承安三年(一一七三)にお生まれになったことがわかっていますから、今年が御誕生八五〇年の年にあたることは、年次計算をすればわかります。ところが、立教開宗八〇〇年ということは、親鸞聖人が「浄土真宗」という一宗を開かれてから八〇〇年になるのかというと、実は、ことはそれほど単純ではありません。

 そのわけは、親鸞聖人が八〇〇年前に、「私は浄土真宗という一宗を開きます」と宣言されたわけではないからです。それどころか、もし親鸞聖人に「あなたは浄土真宗を開かれた、いわゆる宗祖(あるいはご開山)ですね」とお尋ねすると、「いえいえ、浄土真宗を開かれたのは法然聖人です」とお答えになるはずだからです。その根拠は、表紙に掲げた『高僧和讃』「源空讃」に、

  智慧光のちからより
  本師源空あらはれて
  浄土真宗をひらきつつ
  選択本願のべたまふ

とおっしゃっているからです。

 ならば、浄土真宗の宗祖は法然聖人なのかというと、そう簡単にも結論づけるわけにもいかないのです。その理由は、法然聖人は『選択本願念仏集』という書物の中で、「浄土宗」という一宗の独立宣言をされていますが、「浄土真宗を開いた」とはおっしゃっていないからです。 ならば、親鸞聖人が「浄土真宗を開かれたのは法然聖人です」と言われているにもかかわらず、親鸞聖人を「浄土真宗の宗祖」と仰いでいることを、どのように受け止めたらよいのでしょうか。

 まず、法然聖人が「浄土宗」という一宗の独立宣言をされた意義を考えると、従来、浄土の教えといえば、天台宗や真言宗など、自力の修行によってこの土でさとりを開く「聖道門」という教えの寓宗(かたすみの教え)と位置づけられていました。

 しかし、法然聖人は中国の善導大師のお書物をとおして、浄土の教えは、自力の修行では決してさとりを開くことのできない、煩悩具足の凡夫を一番の救いの目当てに、阿弥陀仏が本願力をもって浄土に迎えとり、仏にしていくという教えである、と見極められました。

 つまり、浄土の教えは、自力の修行によってさとり開くことを目指す「聖道門」の教えとは、仏道の歩み方が根本的に異なっている。だから、これを「浄土宗」という一宗として独立させることを宣言されたのです。

 ところが、法然門下の中に、浄土の教え(浄土宗)を「聖道門」と混同する者が出てきたのです。そこで親鸞聖人は、「真」の一字を加えて「浄土宗の真実義」という意味で、これを「浄土真宗」と名づけられたのです。(つづく) 


 立教開宗の意義〜浄土真宗とは?〜(147号より)

 無明長夜の 灯炬なり
 智眼くらしと かなしむな
 生死大海の 船筏なり
 罪障おもしと なげかざれ

 今年は、親鸞聖人がご誕生されて八五〇年、「浄土真宗」という教えを開かれてから八〇〇年という年にあたります。

 それでは、親鸞聖人が開かれた「浄土真宗」とは、どのような教えなのでしょうか。いま「浄土真宗」という名前にこめられた教えの意義について、うかがっておきたいと思います。

 まず一つには、「浄土宗の真実義」という意味があります。法然聖人は、自力の行をもって、この土でさとりを開くことを目指す「聖道門」の教えと、阿弥陀仏がすべての人々を救おうと願われ、選び取られた念仏により浄土に生まれ、さとりを開くことを目指す「浄土門」の教えとの違いを明らかにして、「浄土宗」という一宗を開かれました。

 しかし、法然聖人の門下の中には、念仏を自らの善根功徳であると誤解して、その功徳によって浄土往生を目指そうとする人々がありました。そこで、親鸞聖人は念仏も信心も仏さまによって恵まれたものであることを明らかにして、これを「浄土真宗」と名づけられたのです。

 二つには、「浄土よりあらわれた真実の宗教」という意味があります。阿弥陀仏の浄土は、「煩悩の汚れのない浄らかな世界」というだけでなく、「衆生の煩悩を浄化していくはたらきをもつ世界」でもあります。それゆえ阿弥陀仏は、煩悩によって迷いの世界を流転している私たちを救おうと、南無阿弥陀仏のよび声となり、また、さとりの世界に導く船となって、いまここで救いの活動をしてくださっています。このはたらきを「浄土よりあらわれた真実の宗教」すなわち「浄土真宗」と名づけられたのです。

 三つには、「私たちに浄土を知らせ、浄土を願って生きるものにしていく教え」という意味もあります。それは、たとえば、満月が夜空に輝くとき、その月の存在を知らせるのは月の光であり、その月の光が闇を照らすことに譬えられます。

 そのように、阿弥陀仏の浄土から届く光は、私たちの闇の世を照らし、浄土の存在を知らせて、浄土へと導いてくださるのです。表紙に掲げたご和讃は、まさにそのことをあらわしていました。仏教讃歌「宗祖降誕会」の一番の歌詞は、

  闇に迷う われひとの
  生くる道は 開けたり
  無漏のともし はるけくも
  かかげんとて 生れましぬ
  たたえまつれ きょうの日を
  祝いまつれ きょうの日を

です。今年の降誕会は、親鸞聖人の八五〇年目のお誕生日。皆さまと共に、心からお祝いしたいと思います。   


 長持ちさせてくださいね!(146号より)

 去年から、眼圧の検査と、眼圧を下げる点眼液を処方してもらうために、月に一度、眼科に通っています。先日、診察の最後に、先生がおっしゃった言葉が「長持ちさせてくださいね!」でした。その日は、いつもの眼圧測定検査の他に、眼底の様子を調べる検査がありました。視神経が集中しているところに、はっきりと凹みを確認できれば正常なのだそうです。検査の結果は「正常」でした。

 ご承知の方もあるかと思いますが、高齢になると眼圧が上がりやすくなり、放っておくと、少しずつ視野が失われ、やがて失明にいたる。これが緑内障です。今のところ、眼圧を下げる点眼液のおかげで、眼圧は正常に保たれており、緑内障の症状は進んでいないとのこと。この調子で点眼液をずっとさし続けてください、という意味で「長持ちさせてくださいね!」とおっしゃったのです。

 私たちの健康は、身体のさまざまなはたらきが、バランスよく保たれることによって維持されているのですが、若いときは、そんなことを考えることさえありませんでした。しかし、年齢を重ねてくると、身体にさまざまな変化(異常)がおこり始めます。病院に通うのも、病気を治すためというより、症状を悪化させないため、ということが多くなってきます。先日、眼科医の先生から「長持ちさせてくださいね!」という言葉をかけていただいたとき、これまで、つい、うかうかと生きていた、ということに気づかせてもらいました。

 私たちは、生まれたときから、少しずつ老い、病いをかかえ、やがて必ずこの世のいのちを終えていかなければなりません。だからこそ、頂いたいのちを大切にしなければならないのですが、そのことを忘れて、うかうかと、自分のいのちを粗末にして生きています。しかも、このいのち、どこへ向かって生きていけばいいのかという、最も大切なことを問うことを忘れて、ただ、好きか嫌いか、損か得か、ということに振り回され、愛と憎しみのはざまで、右往左往しているのが私たちなのです。

 そんな私を、阿弥陀さまはつねに気にかけて、「私と一緒に、まことの世界に向かって生きていこう」とよびかけてくださっているのに、その声に耳を傾けようともしません。眼科医の先生のお言葉は、そんな私への、阿弥陀さまのお手回しだったのかもしれない、と思いました。


 仏にしてくださる教え(145号より)

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

 私たちは生・老・病・死の四苦をはじめ、愛別離苦・怨憎会苦など、さまざまな苦悩をかかえて生きています。お釈迦さまは、そのような苦悩を超えていく道があることをさとられ、生涯をかけて、その道を私たちに説いてくださいました。

 その教えは、さとりを開かれた仏さまの教え(仏の教え)であり、また、私が仏のさとりを開く教え(仏になる教え)であるということから「仏教」とよばれています。ただ、お釈迦さまも、私たちと同じ肉体を持ったいのちを生きられましたから、八十歳をもってその生涯を閉じていかねばなりませんでした。

 そこで、お釈迦さまは、自分が亡くなった後は、ときを超え、ところを超えて、すべての人々を安らかなさとりの世界に導いてくださる、阿弥陀さまの仰せにしたがって生きなさい、と遺言されました。それが「浄土三部経」なのです。

 浄土三部経には、どのような行をもってしても、苦悩の世界を抜け出すことのできない愚かな凡夫を一番の救いの目当てとし、永い時間をかけて「南無阿弥陀仏」の名号をもって、すべての人を救い取るという方法を完成され、救済活動を続けてくださっている、ということが説かれています。

 しかし、「阿弥陀さまが私を仏にしてくださる教え」を受け入れるようになるまでには、阿弥陀さまの大変なご苦労がありました。それを親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と言われたのです。


 煩悩具足と信知して(144号より)

 煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

 健康を損ない、医者に診てもらうという経験がないと、薬や医者のありがたみがわからないように、人生につまずいたり、生きることに不安を抱えたことがなければ、仏さまの教えを聞くことの大切さは、なかなかわからないものです。また、悩み事があっても、即効性のあるご利益を求め、「喉もと過ぎれば、熱さ忘れる」ということわざがあるように、その時の苦しさや受けたご恩をすぐ忘れてしまうのが、私たちの性分なのかもしれません。

 ずいぶん昔、「臭いぞ、臭いぞ、トイレが臭い。臭いにおいは、もとから断たなきゃダメ!」という消臭剤のコマーシャルがありました。私はそれを見ていて、仏教の教えにもつながる、真理をついた、なかなかおもしろコマーシャルだなと、うなづきながら見ていたことを思い出します。

 しかし、このことを私たちの人生にあてはめたとき、ただうなづいているだけではすまされないと思うのです。他人事なら、偉そうにとやかく言う私ですが、いざ自分のこととなると、そうはいきません。かといって、仏さまのみ教えを聞かせていただき、少しでも怒りの心や、貪りの心、妬みの心をなくして、穏やかな日々を送りたいと思っても、なかなか思いどおりにはいきません。聞いても聞いても、心が穏やかになるどころか、むしろ、お聴聞を重ねるほどに、グチや怒りの種(たね)は増える一方、ということにもなりかねません。

 そのような私を見抜いて、なんとか救い出したいと立ち上がられたのが、阿弥陀仏という仏さまだったのです。阿弥陀さまの教えを聞くということについて、親鸞聖人は、まず、

  「凡夫」といふは、無明煩悩われらが  身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
  臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

と、自らが凡夫であると見定め、

  かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、
  かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
 
と、お念仏を申しながら、ただほれぼれと阿弥陀さまの光を仰ぎ、阿弥陀さまに導かれて生きることだとお示しです。

 
 妙音院了祥師の二河白道図



 正定聚の位に住す(143号より)

 親鸞聖人が浄土真宗の教えを説かれるまでは、浄土に往生できるかどうかは、臨終に阿弥陀さまがお迎えにきてくださるかどうか、ということによって決まる、と考えられていました。ですから、ふだんから念仏の功徳を積み、臨終のときには、仏間にて頭を北に、顏を西向きにして、仏さまの手からつないだ五色の糸を手に取り、まわりの人に、ひたすらお念仏を称えてもらうといった、臨終行儀が行われていました。

 しかし、そんな時代にあって、親鸞聖人は、臨終行儀は必要ないと、お弟子に宛てたお手紙のはじめに、

  真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
  信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

と言われました。阿弥陀さまの仰せを聞き、必ず往生できると思って念仏している人は、阿弥陀さまの救いの光につつまれて、「正定聚」とよばれる位に住し、浄土に往生して仏になることは決定しているのだから、臨終を待つことも、臨終に来迎を期待する必要もないと言われるのです。これは、本当に画期的なことでした。

 親鸞聖人が、このお手紙の中に記されているように、真実信心の行人(念仏者)が正定聚の位に住するのは、「摂取不捨」すなわち、私たちの迷いの闇を破る、阿弥陀さまの智慧の光につつまれているからでした。そしてそれは、闇の世界では輝くことができなくても、太陽が放つ光に照らされて、あらゆる花が、それぞれの色に光輝いているようなものです。

 そのように、お念仏申しつつ、阿弥陀さまのよび声に導かれている人は、浄土から放たれる光につつまれているのであり、すでに浄土の仲間入りをしている人だと、親鸞聖人はおっしゃるのです。

 最後に、このような「正定聚」の人の徳を、浄土の世界をあらわす四つの功徳によって、味わっておきたいと思います。

(一)清浄功徳
  いのちの帰すべき悟りの世界を知り、
  「生きる意味」と「方向」が定まる。

(二)妙声功徳
  すぐれた教えを聞く耳が育てられ、
  本当の「生きる喜び」を知る。

(三)主功徳
  生きるよりどころとなる人に出会い、
  敬いの心をもって生きる。
  蓮如上人は「仏法を主とし、世間を
  客人とせよ」とお示しです。

(四)眷属功徳
  仏さまの言葉をよりどころとする、
  和やかな仲間(サンガ)を持つ。


 阿弥陀さまのお育て(142号より)

 わたしゃしやわせ よい耳もろた
 ごんとなったる鐘の音
 親のきたれのごさいそく
 浄土へやろをの 親のさいそく

 表紙の言葉は、阿弥陀さまのお育てによって、お念仏の花を咲かせた「妙好人」、浅原才市さんのおうたの言葉です。

 はじめの「わたしゃしやわせ(しあわせ)よい耳もろた」とは、もちろん、いわゆる「福耳」のことではありません。世間では、耳たぶが大きく、肉の厚い耳のことを、福にめぐまれる相であるというところから「福耳」と言います。

 しかし、才市さんが「私はしあわせものだ」と喜ばれているのは、如来さまのみ言葉を、ありがたく、たのしく聞かせていただける「心の耳」をひらいてもらった、ということでした。

 浄土真宗の「信心」とは、「南無阿弥陀仏」というみことばを、「お前を救う親がここにおるぞ、安心してくれよ」と私をよびさましてくださる親さまのおよび声と、ありがたく聞かせていただける「心の耳」がひらかれることなのです。

 お育てによって、法を聞く耳がひらかれてからの才市さんは、「ごーん」と鳴りわたる梵鐘の音を、「ご法座がつとまるぞ、参ってこいよ。お浄土へつれて帰る親のいることに気づいてくれよ」と、私をご催促くださる親さまのみことばと聞いて、喜ばれるようになりました。

 もちろん、才市さんが、はじめからそのようにみ教えを喜ばれていたわけではありません。むしろ、子どもの頃に、自分を捨てた親をのろい、町中で親のすがたを見かけると、怒りが沸き起こり、「大地が裂けるような思いがした」と、晩年、当時のことを振り返って、語っています。

 ただ、さいわいだったのは、生まれ故郷の石見(現在の島根県)の温泉津町小浜には、才市さんに仏縁を結ばせ、阿弥陀さまのみ教え聞いて喜ぶ念仏者に育つように導いてくれた、多くの善知識がおられたことでした。

 才市さんは五十歳をすぎたころ、それまで出稼ぎでやっていた船大工の仕事をやめて、故郷の小浜に落ち着き、下駄をつくるようになりました。それまでも、熱心にお寺参りはしていましたが、小浜に落ち着いてからは、近くの安楽寺や西楽寺のご法座には、欠かさずお参りして、お聴聞しました。ことに安楽寺には、梅田謙敬という和上さまがおられて、そのご縁で、服部範嶺和上など、当時の名僧たちが、しばしばご講師としておいでになっていたのです。

 晩年、自分をそのように育ててくれた小浜のことを、

  せきしゅ こばまは よいところ
  ちしきにあわせて 弥陀をきく
  なむあみだぶの もんにいらせて

とうたっています。阿弥陀さまのお育ては、生きる世界を、これほどまでに変えてくれるものだと知らされるのです。 


 その名は十方に聞こえなん(141号より))

 われ佛の道 さとりえば
 その名は十方に きこえなん
 もし至らざる くまあらば
 誓いてさとり えざらまし

 表紙の言葉は、法蔵菩薩が四十八の誓願を建てられたとき、重ねてその誓願を三つにまとめて誓われた、「重誓偈」とよばれている偈頌(うた)の中の一句を、日本語に訳したものです。

 三つの誓いとは、まず第一に「最高のさとりを開くまで、私はさとりを開いたとは言わない」ということ。
 第二に「 大いなる施主となり、心貧しき人を救うことができなければ、さとりを開いたとは言わない」ということ。
 そして第三に「もし、さとりを開いたならば、私の名が世界中に広まって、私の救いの名告りの声が、届かないところがないようにしたい」ということです。

 この三つの誓いは、第三の誓いに集約されます。阿弥陀さまは、いま、みずから救いを世の人々に告げつつ、あらゆる仏さまにもさとりの徳を讃えられ、私たちを闇の世界から救う活動を続けてくださっています。その第三の誓いのお言葉を意訳したものが、表紙の言葉なのです。

 さて、私たちは、何が正しいことなのか、何が悪いことなのか、本当は何も知らずに生まれてきました。にもかかわらず、いつのまにか、自分が経験してきたことを、しかも自分勝手に解釈して、それを基準に、ことの善し悪しを判断しています。

 その判断が、自分自身もまわりの人も、お互いに心安らかに生きられるように導いていけるものなら、それはそれでいいのですが、しかし、結局のところ、何も問題が解決しないどころか、かえってお互いを苦しめあっている、というのが実情ではないでしょうか。

 梯實圓先生が、生前「人はただ生きている、というそのことだけでも、充分しんどい思いをしているのに、お互いに足の引っ張り合いをして、どうするんだ」とおっしゃっていたことを思い出し、本当にそうだなあと思うのです。

 そんなとき、『歎異抄』の、

  まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、
  われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

という言葉が、胸に突き刺さります。しかし、この言葉は、裏返してみると、「如来のご恩を思う」ことの大切さを教えてくれる言葉でもあります。

 お念仏することをとおして、「私の救いのよび声が、あらゆる世界に響きわたり、一人でも多くの人に安らぎが恵まれますように」と願われた、阿弥陀さまの大悲のお心を受け止めたいと思います。


 憩いの家とならんかな(140号より)

 われ誓うらく さとりえて
 ひろくこの願 はたしなば
 おそれなやめる もろびとの
 憩いの家と ならんかな
    〜「讃仏偈」意訳「さんだんのうた」より〜

 表紙の言葉は「讃仏偈」の意訳「さんだんのうた」の一節です。「讃仏偈」は、世自在王仏という偉大な仏さまに出会った国王が、王の位を捨てて、一介の修行者となり、法蔵という名の菩薩となって、世自在王仏のすぐれたお徳を讃えられた偈頌(うた)です。

 「讃仏偈」の前半では、法蔵菩薩が世自在王仏のお徳を最高の褒め言葉をもって讃えられ、後半では、ご自身も「世自在王仏のような仏になりたい」との思いで、自らの誓いを立てていかれました。その誓いの要の言葉が、表紙に掲げた一節なのです。

 「われ」とは法蔵菩薩ご自身のことであり、「おそれなやめるもろびと」というのが、私たちのことです。

 法蔵菩薩は、やがて発される四十八の誓願を、修行によってことごとく成就したあかつきには、恐れや、さまざまな悩み、苦しみをかかえて生きていかねばならない人々の「憩いの家」、すなわち「まことの安らぎ」となろうと決意されたのでした。

 浄土真宗のみ教えは「仏願の生起本末を聞く」ことが要と言われます。世俗の頂点にあった国王が、王の位を捨ててまで、私たちを救うことのできる仏になろうと願われ、願いのとおりの仏(阿弥陀仏)となっておられる、ということを聞かせていただくのです。

 苦悩を抱えて生きていかねばならない私たちは、このような阿弥陀さまの救いに、ただおまかせするばかりです。


 不思議の仏智を信ずる(139号より)

 不思議の仏智を信ずるを
 報土の因としたまへり
 信心の正因うることは
 かたきがなかになほかたし
      〜『正像末和讃』より〜

 お勤めやご法話の後に、たびたび拝読される「聖人一流章」という『御文章』には、「聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と、「信心が肝要である」と説かれます。

 世間一般に「イワシの頭も信心から」などと言われるように、宗教といえば、まず、とにかく何でも「信じること」から、と考えます。ですから、浄土真宗の要である信心も、そのような信心と同じである、と考えがちですが、実はそうではないのです。

 それでは、浄土真宗の信心と、他の宗教の信心とは、どのように異なるのでしょうか。その違いをひとことで言えば、浄土真宗の信心は「他力の信心」であり、他の宗教の信心は「自力の信心」だということです。でも、その違いを理解するためには、浄土真宗で使う「自力」「他力」の意味と、それ以外の宗教、あるいは世間一般の考え方との違いを理解しなければなりません。

 ここで、浄土宗(鎮西派)の自力・他力の考え方が、一般的な自力・他力の考え方をよく表わしていますので、簡単に解説しておきます。浄土宗(鎮西派)では、悟りは、自力と他力の二つがあいまってこそ完成すると考えます。たとえば、聖道門では、行者の修行力(自力)が強くても、悟りを開くためには、弱いながらも仏の加護力(他力)が必要である。浄土門では、念仏して、浄土に往生したいと願うこと(自力)はわずかな力であるが、仏さまの救済力(他力)が強いから、浄土に往生して悟りが開けると考えます。だから、自力の弱い凡夫は、浄土門に入るべきだと言います。

 それに対して、親鸞聖人は、自力は捨てるべきものであり、他力こそ帰すべきものであるとされたのです。これは、七高僧のお一人である、善導大師のお考えを徹底されたものでした。それは、一つには、私たち凡夫には、無限の過去から遠い未来にいたるまで、迷いを離れていく手がかりは一つもないと信知する。二つには、阿弥陀さまはそのような凡夫を、仏願力によって必ず救うとおっしゃるので、その仰せのまま、仏願力におまかせすれば、必ず浄土に生まれることができると信知する、ということでした。

 つまり、自力無功(役に立たない)と信知し、ただ阿弥陀さまの仏願力(他力)におまかせすれば浄土に往生できると信知することが、真実の信心であるといわれたのです。親鸞聖人は、自力は無功であるから、捨てるべきものであり、ただ他力に帰してこそ、阿弥陀さまの救いは実現すると考えておられた、ということなのです。

 「他力の信心」とは、自力のはからいを捨てて、「不思議の仏智」を受け入れることであり、仏さまの「安心せよ」とのよび声に、素直にしたがうことだったのです。

 番方講について(138号より)

今年も番方講法要をお勤めする時期となりました。番方講は、報恩講とならんで、伝統のある大切な法要です。
 そもそも、浄土真宗の教えが近江の地に広く伝えられたのは、本願寺第八代、蓮如上人の時代のことでした。それ以来、江州門徒は、本願寺を支える有力な門徒となってゆきました。

 本願寺第十一代、顕如上人の頃、本願寺は今の大阪城のあるあたり、石山の地にありました。時は戦国時代、天下統一をねらっていた織田信長は、石山の地を譲れと顕如上人に迫ります。 石山本願寺は、寺内町といって、本願寺を中心に、商工業者が自由な経済活動ができる自治組織でした。

 そこで本願寺は、織田信長の申し入れを断り、元亀元年(一五七〇)九月から天正八年(一五八〇)年八月にかけ、十一年にわたって徹底的に抗戦しました。これが有名な石山合戦です。 石山合戦において、近江の本願寺門徒は、本願寺を守護するために、兵糧米を送ったり、戦のために人を派遣したりと、尽力しました。後に頼山陽が「抜きがたし、南無六字の城」と讃えたように、織田信長をもってしても、石山本願寺を落とすことはできませんでした。

 しかし顕如上人は、長引く戦によって、多くの門徒の命が奪われていくことを憂い、正親町天皇の仲裁によって信長と和睦を結び、本願寺を明け渡すこととなったのでした。本願寺はその後、寺基をあちこちに移転しますが、豊臣秀吉の寄進によって、京都堀川の地に落ち着き、現在に至っています。

 さて、浄光寺のある地域は、江州中郡番方講(南方番方講)と呼ばれていて、この番方講へも、蓮如上人以来、明如上人まで、歴代の御門主から御消息が出されました。そのようなご縁で、現在でも南方番方講では持ち回りで法座を開いています。
 なお、浄光寺には本願寺第十二代、准如上人より、褒美として絵像のご本尊を頂戴しています。これは浄光寺が「惣道場」であった時代、道場のご本尊「御惣仏」として賜ったものです。

 いつの時代からか、浄光寺では単独で番方講法要を勤めるようになり、頂戴したご本尊を余間に掛け、一年間に亡くなった方の永代経も兼ねて、法名と御懇志を頂いた方(施主)の名前を法名軸に記帳し、その両脇に掛けて、お勤めするようになったようです。

 昔は、浄源寺のご門徒さんの法名も記帳していたようですが、現在、浄源寺さんでは蓮如講という法要をお勤めされるようになり、それからは法名の記帳はうちのご門徒さんだけになったようです。しかし、今でも両寺の門徒さんたちは、大切な法要としてお参りされます。勤行の後には、番方講への御消息(明治二十五年に彦根市、高宮の円照寺の水原慈音師が編集、出版された御消息集)から四通を選んでを拝読しています。


 わたしゃ六字のうちにすむ(137号より)

 今からおよそ二百年ほど前、山口県の下関の港から、小さな連絡船で二十分ばかり沖に出たところにある、周囲五キロほどの小島、六連島に、「お軽さん」という妙好人がいました。今でも、お軽さんのことを慕う多くのお同行が、六連島を訪れます。

 お軽さんがこれほどまでに慕われているのは、一つには、気性の激しかったお軽さんが、西教寺のご住職、西村現道師に導かれ、真剣な求道の末に、見事にお念仏の花を咲かせたということ。二つには、現道師の弟で、詩人でもあった超道師の指導で、味わい深い歌をたくさん残したからではないかと思います。
 お軽さんは、十九歳のときに、幸七という青年を婿養子に迎え、夫婦仲もよく、子どもにも恵まれて、しあわせな日々を送っていました。

 二人は島の高台にある畑で野菜を作り、とれた野菜を、村の仲間と共に、夫の幸七が、下関や北九州の各地に売って、生活をしていました。ところが、村の仲間は帰ってきても、幸七の帰りだけが遅いということが、少しずつ増えていきました。仲間はお軽さんの気性を知っていましたから、口裏を合わせて秘密にしていたのですが、ついに幸七の浮気が、お軽さんに知られてしまったのです。

 夫に裏切られという激しい怒りと、夫の浮気相手に対する嫉妬の思いから、お軽さんは、気が狂ったように、あちこちで怒りの言葉をぶつけていきました。

 そんなすがたを見かねた西教寺の住職、現道師は、「怒りがこらえきれなくなったら、周りにあたり散らすのではなく、すぐにお寺にかけこむのだよ」と、お軽さんを諭すのでした。それがお軽さんの求道の日々の始まりでした。しかし、聞いても聞いても心の安まることはなく、思い余って、海に身投げしようとしたこともあったようです。

 必死にお聴聞を続けるお軽さんは、下関や北九州で法座があり、ありがたいお坊さんが来ておられると聞くと、一人、小舟をあやつり、関門海峡の急流をのりこえてまで、お聴聞に通うこともありました。そんなすがたを見て、村の人々は「お軽は気が狂った」と噂しました。

 苦しみ続けたお軽さんに、ようやく一筋の光が差し込む日がやってきました。煩悩をかかえたままの私を抱きとって、「そのまま来い」「連れてゆくぞ」との阿弥陀さまのよび声に、ただ「はい、おまかせします」と答えるお軽さんのすがたが、そこにはありました。

 鮎は瀬に住む 小鳥は森に
 わたしゃ六字の うちにすむ

という有名な歌も、いますでに阿弥陀さまに抱かれているという、大きな安心感から生まれたものだったのです。

 仏さまの光を仰ぐ(136号より))

 無明長夜の灯炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ

 表紙に掲げたご和讃は、法事のご法話でも、たびたび拝読させていただいていますので、聞き覚えがあるという方も多いと思います。

 ところで、皆さんのお家のお仏壇は、お扉を閉めっぱなしにしているとか、逆に開きっぱなしにしている、ということはありませんか。もしそうだとしたら、毎朝、お扉を開き、夕方に閉じる、ということを習慣づけてみませんか。

 浄土真宗のお仏壇は、阿弥陀さまのおられる浄土の世界を表現しており、中央には、ご本尊である阿弥陀さまの絵像のお軸をお掛けしてあります。ご本尊である阿弥陀さまの絵像をよく見ると、そのお体から光が放たれているように描かれています。それは、私たちの眼に見えない阿弥陀さまを絵にするとき、このように闇を破る光を放つすがたとして描かないと、阿弥陀さまを描いたことにならないからなのです。



 阿弥陀さまは、けっしてお浄土にじっとしておられる仏さまではありません。阿弥陀さまを「尽十方無碍光如来」というお名前であらわすこともあります。「如来」とは、「如より来生されたお方」(さとりの世界よりおでましくださったお方)ということで、「尽十方無碍光」とは、あらゆるところに光を放って、うれしいときも、悲しいときも、心が晴れて明るいときも、闇のよう暗いときも、つねに私たちを光の中におさめとり、安らぎを恵まれることをあらわしています。

 朝日が昇ると、それまで闇に閉ざされていた世界に光が差し、今まで見えなかったものが、はっきりとすがたをあらわし始めます。朝、お仏壇のお扉を開いて、お仏壇の前に座ってみる、ということを続けていると、お扉を開いたとき、阿弥陀さまの光が、お浄土から今ここに差している、と感じられるようになります。

 日々の生活は、けっしてうれしく楽しいことばかりではありません。苦しいときも悲しいときもあります。しかし、いつも変わらず、阿弥陀さまは私に光を放ってくださっている、と感じることが大切なのです。先に掲げたご和讃の、

 無明長夜の灯炬なり  (灯炬=ともしび)
 智眼くらしとかなしむな

というお言葉を、日々の生活の中で、よくよく味わいたいと思います。 


 我執をを離れる(135号より)

 解脱の光輪きはもなし
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ
    (『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈讃」より)

 仏教では、私たちの苦しみのもとは、自分自身や自分自身の思いへのとらわれ(我執)であると教えます。

 私たちは「言葉」によってものごとを考えます。しかも、言葉によって考えたことを確かなこととして、その考え方にとらわれていきますが、それは本当に確かなことでしょうか。たとえば、私にとっての「右」は、反対側にいる人にとっては「左」です。また、私が向こうにいる人に向かうときは「行く」と言いますが、相手から言えば「来る」です。

 何気なしに使っていますが、私の使う言葉は、つねに自分を主体とした言葉でしかありません。立場が変われば、使う言葉も考えることも違ってきます。にもかかわらず、私たちは自分の使う言葉によって想定(虚構)されたことを確かなこととして、それに縛られてしまいがちなのです。自分の考え方を基準にして、好きか嫌いか、損か得か、はたまた良いか悪いかなど…。

 そして、自分の思いにとらわれて、怒りや嫉みの心をおこして苦しんでいるというのが、いつわらざる私たちのすがたではないでしょうか。だとすれば、自分の思い込みから離れれば、苦しみはなくなるということになるのですが、凡夫である私たちにとっては、それが至難の業なのです。

 ただ、すべてのものを平等に慈しまれる阿弥陀さまのお心(平等覚)に聞き触れて生きるしかないと、親鸞聖人は教えてくださいました。



 逆縁もまた縁となって(134号より)


 私たちの人生には、思いどおりにならないことが、たびたび起こります。ことに人間関係については、育った環境も、考え方も、価値観も、人それぞれに異なるのですから、相手の立場に立って、ゆずり合うことを忘れたら、うまくいかないのは当然のことかもしれません。どれほど恵まれた境遇にあっても、人生に苦悩が尽きないことには変わりがないようです。

 お釈迦さまご在世の頃、マガダ国という国に、ビンビサーラという王さまと、イダイケというお妃さまがおられました。お二人はお釈迦さまに竹林精舎を寄進するほどに、仏さまの教えを熱心に聞いておられ、その暮らしはとてもおだやかなものでした。

 しかし、お二人にはひとつの大きな悩みがありました。それは、なかなかお世継ぎに恵まれないということでした。なんとか世継ぎがほしいと思い詰めた王さまは、占い師に見てもらうことにしました。すると占い師は「山奥に住む仙人の寿命が尽きたら、生まれ変わりとして王子に恵まれます」というのです。占い師の言葉に惑わされた王さまは、仙人の住む山を訪ね、寿命を待たずして仙人を殺害してしまいます。

 やがて、お二人のあいだに子どもが恵まれるのですが、無念の最期を遂げた仙人が遺した言葉のとおり、その子は成長するにしたがって、父母に恨みを抱くようになります。お二人は愛情をもって王子アジャセを育てていたのですが、お釈迦さまの地位を狙っていたダイバダッタの企みに、アジャセ王子はまんまと乗せられ、ついに、父王を牢獄に閉じ込めて餓死させ、王を助けようとした母までをも、牢獄に閉じ込めてしまうのでした。

 嘆き悲しむイダイケの様子を知ったお釈迦さまは、牢獄の中にいるイダイケのもとにやって来ました。お釈迦さまのお顔を見て、ほっとしたのでしょう。イダイケは自分の不幸を嘆く言葉を口にしているうちに、あろうことか、自分のために来てくれたお釈迦さまに向かって、「息子アジャセをそそのかしたダイバダッタは、お釈迦さま、あなたのいとこではありませんか」と怒りの矛先を向けたのです。そこには、お妃としての誇りも、威厳もありませんでした。ただ、息子に裏切られて泣き叫ぶ、愚かで、か弱い、生身の人間のすがたでした。

 お釈迦さまは、そんなお妃を静かに受け止め、少し微笑みさえ浮かべながら、阿弥陀さまの救いを説いていかれるのでした。お釈迦さまの言葉を聞いているうちに、お妃が気づいたのは、愚かで、か弱い本当の自身のすがたと、そんな自分を見捨てることなく、しっかりと抱き取ってくださる阿弥陀さまに、その身をゆだねることのできる安心感でした。


 ソーシャル・ディスタンスを考える(133号より)

煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ

 新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、緊急事態宣言が出され、私たちは三ヶ月あまりの自粛生活を余儀なくされました。緊急事態宣言が解除されたとき、新しい生活のあり方が模索される中で、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉をよく耳にするようになりました。

 新型コロナウィルスの問題は、病気そのものの恐さも去ることながら、人と人のつながりを断ち切り、これまで当たり前のように行っていたことが、全くできなくなってしまったことではないでしょうか。この状況は長期間続くことが予想され、たとえワクチンが開発されても、ウィルスを根絶することはできませんから、全く元の生活に戻ることは難しいといわれています。

 「ウィズ・コロナ」(コロナと共に)とも盛んに言われるようになりましたが、これからの時代は、新型コロナウィルスのようなウィルスと共に生きていく工夫、生活の知恵なくしては、社会生活を営むことができない、ということを覚悟しなければならないことを、この言葉は示唆しているのではないかと思います。

 「ソーシャル・ディスタンス」という言葉も、このような状況の中から生まれました。日本語に訳せば「社会的距離」という意味になりますが、この言葉には「お互いにつながりを持ちたいけれど、今は感染を避けるために距離を取りましょう」という思いがこめられているように思います。少し離れたり、お互いの間にアクリル板を置いたりしますが、心のつながりは大切にしますし、スマホやインターネットが普及したおかげで、離れた所にいても、相手の顔を見ながら会話を楽しんだりもします。

 やはり、人は人とつながってこそ、人として生きていけるのだ、ということをあらためて感じるのです。あちこちで法座が休止となる中、さまざまな感染予防対策を施して、ようやく法座を開くことができるようになったとき、法座が開かれることを待ち望んでいたかのように、お参りされた方々が喜びの声をあげられたそうです。それは、自粛生活を強いられ、窮屈な思いで生きている時だからこそ、仏さまの教えを聞くことが心の安らぎにつながるということを、常々よく聞いておられるからだと思います。
 お釈迦さまのかつての修行仲間も、初めはお釈迦さまの言葉に耳を傾けようとはしませんでした。しかし慈悲の心の大切さを説き続けていかれるうちに、お釈迦さまの教えに頷くようになったのです。

 表紙のご和讃に「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば」といわれているのは、本当に尊いものに出遇わなければ、私たちは自らが「煩悩具足の凡夫である」とか「愚かな者である」とは、なかなか思えないからでした。それは、苦悩の世界を浮き沈みしてきた私を見捨てることができず、私を救うことにかかりはてられた阿弥陀さまの大悲の親心に聞きふれたとき、はじめて知らされることでした。


 新型コロナの感染拡大に思う(132号より)

  新型コロナウィルスの感染拡大の影響を受けて緊急事態宣言が発令され、長期間にわたる自粛生活が続いています。皆さんが自粛要請を守ってくださったおかげで、ようやく緊急事態宣言は解除されましたが、感染拡大の不安がなくなったわけではありません。自粛期間中に行ってきた感染予防対策は、これからも継続して実行していくことが必要となります。そこで、住職としてこの間に感じたこと、考えたことを、三点にまとめて、お伝えしたいと思います。

 一、正しい情報を知る大切さ

 新型コロナウィルスの感染が始まった頃、私たちは遠いところで起こったことだと、他人ごとのように考えていました。新型ウィルスの本当の恐さを知らなかったからです。専門家の間でも、色々な意見が出されましたが、本当のところは誰もその実態がわからなかった、というのが実情だったのだろうと思います。

 そうこうするうち、少しずつ感染が広まり、やがて深刻な社会問題になるまでに感染が拡大し、マスクや消毒剤がなくなるばかりか、トイレットペーパーまでがお店の棚から消える事態となりました。お互いに支え合うことで成立していた世の中が、互いを阻害し、生き辛くなりました。 現代のような情報がすぐに手に入る便利さは、誤った情報が拡散しやすいということと隣り合わせです。あらためて、何が正しい情報なのかを見極めることの大切さを知らされました。

 二、人間の弱さと差別心

 医療関係従事者の方々は、いつ自分自身が感染するかわからないという恐怖にも向き合いながら、身体をはって必死に治療に専念してくださいました。そのおかげで、ぎりぎりのところで、医療崩壊せずにすみました。心から感謝しなければなりません。

 一方で、悲しいことですが、このように頑張ってくださっている医療関係従事者や、ご家族に対する、いわれなき差別行動も起こりました。お互いに支え合わなければ生きていけないというのに、いざとなれば「自分こそが大事」という心がむき出しになってしまいます。また、そこまではしないという人でも、何気ない会話やしぐさの中で、相手を避けてしまうということはなかったでしょうか。ふだんは気づかない、人間の持っている、弱さと愚かさも知らされました。

 三、親鸞聖人の教えに学ぶ

 時代をさかのぼって、親鸞聖人ご在世の頃(文応元年、一二六〇年、聖人八十八歳)、全国的な大飢饉と悪疫におそわれ、数え切れないほどの死者が出たことがありました。そのとき、不安を抱える弟子の乗信に宛てた親鸞聖人のお手紙が残されています。まず、

 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。

と、数多くの人が亡くなっていくことを、悲しく辛いことです、といたわっておられます。けれども、この世は無常であり、何が起こっても不思議ではないと、仏さまはすでにお示しになっていることですから、ことさらに驚くことではありません、と言葉を重ねられます。一見、冷たい言葉のようにも思えますが、親鸞聖人はこのような時だからこそ、わがいのちにかけられた阿弥陀さまのお心を、よくよく聞かせていただくことが大切なのですよ、と、次のように諭されます。

 まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。

 ここで親鸞聖人が「臨終の善悪をば申さず」といわれているのは、世の人々は飢饉とか疫病で亡くなっていく人を見て、不幸だとか、かいわそうだとか、こんな死に方では救われまい、と思うかもしれないが、私はけっしてそうは思いません、とおっしゃるのです。なぜなら、「すべての人を必ず浄土へ迎え取る」という阿弥陀さまの誓いの言葉を受け入れて、心が定まっている人は、もうすでに往生は決定しているからです。

 ですから、「どのような愚かなものでも、阿弥陀さまの教えを聞いて念仏申す人の臨終は、見事なものなのです。お浄土へ参らせていただくのは、阿弥陀さまの救いのはたらきによるのですから」と、あなたが人々にお伝えされていることは、決して教えに違うものではありません、と親鸞聖人は諭されています。大変な状況の中にあって、親鸞聖人が弟子に諭されたお言葉を、私たちもしっかりと肝に銘じたいと思います。


 念仏の息(131号より)

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

 表紙のお言葉は、親鸞聖人が『阿弥陀経』に「阿弥陀」という名のいわれについて説かれた「光明無量」「寿命無量」ということと、『観無量寿経』に説かれた「摂取不捨」という救いのはたらきを合わせて、阿弥陀仏という仏さまのすぐれたお徳を讃嘆されたご和讃です。

 お釈迦さまは『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』に、ただひたすら阿弥陀さまのことばかりを説いておられます。この世界に生きる数限りないいのちは、善悪、賢愚、老少、男女のへだてなく、みな等しく尊いものであるとごらんになる智慧。そして、その智慧の眼に映る、現実には様々な悩みを抱え、苦しんでいるものを、自らの身を痛むかのように受けとめ、憐れまれる大悲の心。この二つをもった阿弥陀仏の存在を私たち一人一人に知らせるためでした。

 私たちは呼吸が止まれば生きることができないのに、ふだんは空気の存在さえ意識することはありません。空気の薄い高地に行ったり、あるいは呼吸器系の病気にかかったりして息苦しさを感じたとき、ようやく空気の大切さを知るのではないでしょうか。

 お慈悲の心を感ずることができず、お互いに敬い合ったり、いたわり合うことがなければ、どれほど経済的に恵まれていても、あるいは、高い地位や名誉を得ていても、本当の安らぎの場を持つことはできないのではないでしょうか。

 このように、生きることに息苦しさを感じ、闇をさ迷うようにして生きるしかない私たちのすがたをご覧んなった阿弥陀さまは、私たち一人一人に本当の安らぎを恵むために、この世界のあらゆるところに満ちみちて、私たちの一息(ひといき)一息に、「南無阿弥陀仏」という名号(いのちの親の名告り)となってはたらいてくださっています。

 本願寺第三代、覚如上人がお書きくださった 『御伝鈔』下巻第六段に、親鸞聖人の最期の瞬間を、

 口に世事をまじへず、ただ仏恩のふか きことをのぶ。声に余言をあらはさず、
 もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時]
 頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息、たえをはりぬ。ときに頽齢九旬にみちたまふ。

と述べておられます。阿弥陀さまのお慈悲に包まれて称える念仏は、阿弥陀さまの空気の中で呼吸する、まさに「念仏の息」なのです。 


 無明の闇を照らす仏さま(130号より)

尽十方の無碍光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ

 浄土真宗の七高僧のお一人、インドの天親菩薩さまは、『浄土論』という書物をお書きくださって、阿弥陀さまのことを「尽十方無礙光如来」とお示しになり、そのお救いのはたらきを明らかにしてくださいました。

 「尽十方」とは、阿弥陀さまの救いのはたらきが届かないところはない、ということをあらわし、「無礙」とは、阿弥陀さまの救いのはたらきは、何ものにも妨げられることがないということをあらわし、「光如来」とは、光が闇を破るように、阿弥陀さまは私たちの惑いの闇を破ってくださるの智慧の徳があることをあらわしています。

 そして、阿弥陀さまの救いにおまかせする信心のことを「帰命尽十方無礙光如来」とおっしゃいました。これを十字名号といいます。この十字名号がお仏壇の脇掛になっているお家もあると思いますが、これは「南無阿弥陀仏」という六字の名号、あるいは阿弥陀如来さまの絵像本尊と同じことなのです。

 浄土真宗の信心は「他力の信心」とか「如来よりたまわりたる信心」といいわれますが、それは、この信心は私が阿弥陀さまの救いを信じることではなく、阿弥陀さまのお救いにおまかせするほかはないからなのです。

 中国の曇鸞大師さまは、天親菩薩のお心を受けて、阿弥陀さまの救いのはたらきは、ちょうど、夜空に輝く月の光が、私のところまで届いて、私に月の存在を知らせ、その光が私を包み、同時に闇夜を照らしているようなものである、とお示しくださいました。

 阿弥陀さまは、惑いの闇の世界を生きる私たちを、さわりなき光で包み込み、私たちの怒りの心をやわらげ、むさぼりの心をおさえてくださいます。この光を受けて、心に喜びの心が生ずるとき、必ず阿弥陀さまのお浄土に生れ、悟りを開くことが決まるのです。


 大安慰を帰命せよ(129号より)

慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ

表紙に掲げた御和讃は、七高僧のお一人、中国の曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の、

  慈光はるかに被らしめ安楽を施したまふ。
  ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
  光の至るところの処 法喜を得。
  大安慰を稽首し頂礼したてまつる。

というお言葉がもとになっています。親鸞聖人はこのお言葉をもとに、巧みに七五調の御和讃の形にされていることがわかります。

 ここに「歓喜光」とあるのは、阿弥陀さまのお徳を「十二光」であらわした中の一つです。阿弥陀さまの救いのおはたらきは、私たちの瞋恚(いかり)の心を転じて、歓喜(よろこび)の心に変え、そこに本当の安らぎを与えてくださるから「歓喜光」と名づけられるのであるといわれています。

 ふつう、私たちの無明(真実を知らないこと)の闇を破ることから、仏さまの「智慧」を、光にたとえられることが多いのですが、ここでは「慈光」とあるように、仏さまの「慈悲」を光にたとえられています。

 私たちは、互いに支え合って、生かされて生きている(これを縁起といいます)にもかかわらず、自分の都合や、自分の考え方をたよりに生きようとしますから、自分の思いに反することがあると、そのおかげを忘れて、他者に対する激しい怒りの心を起こしてしまうのです。そして、「なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか」「なぜ誰も自分のことをわかってくれないのか」という思いが頭の中をぐるぐると駆け巡ります。

 さらに、激しい怒りの心に縛られ、どんどん苦しみ(ストレス)は大きくなり、その結果、この怒りと苦しみから抜け出すことができない状態に陥ってしまう、というのが私たちのいつわらざるすがたであると、仏さまはご覧になったのです。そして、そんな私に本当のことを知らせても、「わかりました」と口ではわかったようなふりをしながっら、腹の底では納得しないどころか、さらに怒りを増してしまうのが私たちの性根であることも、よくご存じでした。

 ですから、阿弥陀という仏さまは、まず私たちの「怒りを生ずる心」そのものに共感し、「辛いなあ」「苦しいなあ」と、その心を受けとめてくださいます。そのような仏さまのお心を「大慈悲心」というのです。

 たとえ雲や霧に覆われても、その雲・霧を貫いて太陽の光はここまで届き、私をその光でつつみ、温めてくれるように、阿弥陀さまの大慈悲心は、「ちゃんとわかっているよ」「大丈夫」「まかせなさい」と私によびかけ、怒りの心に打ち震えている私を温かく包み込み、頑なな心を和らげてくださるのです。

こうして、私たちに大きな安らぎと、なぐさめをもたらしてくださる仏さまですから、阿弥陀さまのことを「大安慰」と讃えられているのです。


 サンガ(和合衆)こそ仏教の宝(128号より)

 いま放映されている連続テレビ小説『なつぞら』の主題歌「優しいあの子」を聞いているとき、私の脳裏にお釈迦さまの最初の説法(初転法輪)の場面が浮かびました。その歌は、こんな歌詞です。

  重い扉を押し開けたら
  暗い道が続いてて
  めげずに歩いたその先に
  知らなかった世界
  氷を散らす風すら
  味方にもできるんだなあ
  切り取られることのない
  丸い大空の色を
  優しいあの子にも教えたい

 王子として誕生されたお釈迦さまは、人として逃れることのできない老・病・死の苦を超える道を求めて出家されました。六年ものあいだ過酷な苦行をされましたが、これは身体を痛めるだけで、本当の悟りには到達できないと、苦行をやめて瞑想という方法に切り替えられました。そして、縁起の法を悟ったとき、世界は輝いて見えたといわれています。

 お釈迦さまは自らが悟った真理を伝えようと思われましたが、我欲の世界に生きている人びとに、この尊い真理は理解してもらえまいと、一旦は説法をためらわれます。それでも悟りの素晴らしさを説かずにはおれず、かつての修行仲間に説法することを決意をされるのでした。

 とはいえ、お釈迦さまと一緒に修行していた五人の仲間は、お釈迦さまが苦行をやめたのを見て「この人は堕落した」と言って、お釈迦さまのもとを去っていった人たちです。ですから、お釈迦さまが彼らに説法するために訪ねてきたとき、口裏を合わせてお釈迦さまに背中を向け、説法を聞こうとはしませんでした。

 それでも、お釈迦さまは「きっとわかってくれるはずだ」との思いで、五人の仲間に、繰り返し繰り返し説き続けました。 お釈迦さまに背を向けてはいたものの、心の内では関心を寄せていたのでしょう。

五人のうちの一人、コンダーニャがついにお釈迦さまの方に顔を向けて、「わかりました!」と声を上げたのです。それを聞いたお釈迦さまも、「わかってくれたか、コンダーニャよ!」と喜びの声を返されたのでした。インドの言葉で「わかった」とは「アニャータ」と言います。これ以後、コンダーニャは、人びとから「アニャータ・コンダーニャ」とよばれるようになったということです。

 やがて、ほかの仲間も次々とお釈迦さまの教えにうなづき、ここにお釈迦さまを含めた六人の「真理にもとづく仲間」が誕生しました。これを「サンガ(僧伽)」といいます。ここに、仏教における三つの宝、仏・法・僧(僧伽)が成立し、仏教が弘まる基礎ができました。

 仏教は「真理に目覚めたお方の教え」であるとともに、「真理に目覚める教え」であり、「真理を共有して生きる仲間」(僧伽)の輪を広げていく教えなのです。


 光に育つ(127号より)

 光雲無碍如虚空
 一切の有碍にさはりなし
 光沢かぶらぬものぞなき
 難思議を帰命せよ

 初夏の山々は新緑に映えて、眺めているだけで心が安らぎます。緑色は私たちに安らぎを与える色のようですね。その美しい緑を見ながら、ふと思い出したことがありました。

 皆さんもご覧になったことがあるでしょうか。NHKで毎週土曜日の朝、連続テレビ小説が終わった後に放送されている「チコちゃんに叱られる」という番組。日常、何気なく見過ごしていることも、いざ「なぜそうなの?」と尋ねられると答えに詰まってしまう。そんなことってありますね。

 思い出したのは「葉っぱは、なぜ緑?」という質問があったときのこと。皆さんなら、どう答えますか? 答えに詰まっていると、「ぼーっと生きてんじゃないよ」とチコちゃんに叱られそうです。葉っぱがなぜ緑かも知らずに、やれ「新緑の季節は美しい」とか、やれ「緑は目に優しい」とか言っている日本人のなんと多いことか。でも、チコちゃんは知っているのです。その答えは………「赤と青が好きだから」でした。

 どういうこと?って思ってしまう答えですね。しかし、この答えには理由がありました。太陽の光が無色透明なのは、色々な色の光がまじっているからで、虹が七色に輝くのは、光が雨粒によって屈折し、七色に分けられるからなのです。

 さて、葉っぱは太陽の光の中から、青色と赤色の光を吸収して、空気中の二酸化炭素と水分からデンプン・糖などを合成し、酸素を放出します。これを光合成と言います。太陽の光の中で、緑色の光は光合成には不必要な光なのです。実は、私たちが見ている葉っぱの緑色は、葉っぱによって反射された太陽の光だったのです。私たちの眼には、光をたくさん吸収するものは黒く、たくさん反射するものは白く見えているのだそうです。

 その放送を見ながら、私は思いました。葉っぱは緑色と言っているけど、もし光がなければ葉っぱは黒。いや、葉っぱだけでなく、すべてのものが黒………ということになるのだなあと。そして、青い花が青く、黄色い花が黄色に輝くのは、光が届いていたからだ、ということに気づきました。光そのものは無色透明で眼には見えないけれど、何かにぶつかったとき、そのものを輝かせるはたらきを持っています。一つ一つの存在が、それぞれ異なった色に輝くのも、そこにすでに光が届いているからでした。

 表紙のご和讃には、阿弥陀さまの光を「光の雲」と譬えられています。雲は細かい水滴の集まりで、やがて雨となってものを潤し育くむように、阿弥陀さまの光は、大空のように、あらゆるものをわけへだてなく包んで潤し、育くむはたらきがあるのだと讃えられているのです。


 道は必ずある(126号より)

 ひそかにおもんみれば
 難思の弘誓は 難度海を度する大船
 無碍の光明は 無明の闇を破する恵日なり

      〜『教行信証』「総序」より〜

 表紙のお言葉は、親鸞聖人が「浄土真宗」という阿弥陀さまのお救いについてまとめられた『教行信証』全体の序分である「総序」の書き出しの言葉です。私の通っている行信教校では、一日の講義が始まる前に必ず「総序」の文を称えるのですが、お恥ずかしいことに、このお言葉にこめられたお心を、自分のこととして味わえていませんでした。

 そのことに気づいたのは、去る二月十日(日)に仏教婦人会報恩講が勤められ、真宗佛光寺派大行寺のご住職、英月さんのご法話を聞かせていただいたからです。英月さんは自らの体験を踏まえながら、表紙に掲げた親鸞聖人のお言葉を、こんな標語にして味わってくださいました。

  この道も あの道も 行き詰まった
  もう道がない・・・と思うけど
  行き詰まるのは 私の思い
  道は必ずある

 浄土真宗のお寺に生まれて、生活の一部としてお寺の行事などには触れてきたけれど、浄土真宗の教えが自分の「いのち」とか「人生」に関わるものであるとは思ったことがなかったそうです。

 何度もお見合いを勧められ、ご両親の敷いたレールに乗るのが嫌で、お見合いから逃げるためにアメリカに渡られました。あるとき、友人の飼っていた猫のお葬式をすることになり、少しずつ仏縁が熟していきます。そんなとき、実家のお寺を継いでおられた弟さんから「お姉ちゃん、帰って来てお寺を継いで」という電話があり、お寺を出てしまわれました。

 そんなこんなで、やむをえずお寺に帰っては来たものの、たびたび思いがけない壁にぶつかり、なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか、もうダメだと、投げやりになりそうになる。しかし、浄土真宗のみ教えを聞いていくうちに、「こんな状況が自分を苦しめている」とか、「あの人が自分の行く道をさえぎっている」と思っていたけれど、実はそうではなく、行き詰まっていたのは「私の思い」だと気づかされ、「道は必ずある」と思えるようになった、と。

 自分をさまたげていると思っていた、あんなこと、こんなことがなければ、今の自分はなかったと気づいたとき、自分の人生にむだなことは一つもなかったと気づかせいただけるのです。阿弥陀さまのお救いとは、さわり多き人生を「おかげさま」と生き抜く智慧を、私たちに授けてくださることでした。   


 誰のためのお浄土(125号より)

 願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

 せっかく浄土真宗の門徒の家庭にご縁をいただきながら、「お浄土なんてあってもなくてもいい。阿弥陀さまなんて私には関係ない」と思っておられる方がおられるとしたら、ご門徒の方々によって護持されているお寺をお預かりする立場にある住職として、阿弥陀さまに対しても、親鸞聖人や蓮如上人、ひいては多くのご先祖の方々に対して、まことに申し訳ないことといわねばなりません。

 阿弥陀さまのお浄土が、私たちが選んで参る世界ならば、それは「選択の自由」ということにもなりましょうし、お浄土に参れないのはその人の「自己責任」ということにもなるでしょう。

 しかし、阿弥陀さまは「老・病・死」という誰もが避けることのできない苦しみを抱え、また、愛と憎しみのはざまの中で浮き沈みし、時にはもだえているような私を、放っておけないというお慈悲の心を起こされました。そして、そのようなものを救い取るために、自らすべてのものをもらさず救うことのできる「阿弥陀」という仏になろう、すべてのものが安心できるような「極楽浄土」という世界を完成しようと誓われました。

 さらに、救いの手立ても「南無阿弥陀仏(必ず助けるぞ、我にまかせよ)」というよび声を聞いて、そのよび声のまま、「南無阿弥陀仏(お助けくださり、ありがとうございます)」と口に称え、阿弥陀さまにおまかせする信心ひとつに仕上げてくださったのです。

 「親の心、子知らず」とはよく言いますが、私たちはこれまで阿弥陀さまの親心を知らずして、思いどおりにならない世界を、自分の思いだけを振り回して生きてきました。お聴聞を大切にして、私のために阿弥陀さまがいてくださり、お浄土があるということを聞き開かせていただきたいものです。


 不退のくらゐにいりぬれば(124号より)

 真実信心うるひとは
 すなはち定聚のかずにいる
 不退のくらゐにいりぬれば
 かならず滅度にいたらしむ

 親鸞聖人は、表紙に掲げた御和讃に、

  真実信心を得た人は、ただちに仏の悟りを開くことに決定したなかま(定聚=正定聚)に入るのです。
  それは、仏道を決して退転することのない位(不退=不退転)に入ったことですから、
  やがて(この世のいのちを終える時には)必ず煩悩を滅して仏の悟りの境地(滅度)に到達せしめられるのです。

と、真実信心の行者の現生の利益(現益)と、当来の利益(当益)をお示しになりました。

 ところで、世間一般にも「不退転の決意をもって」などという時に「不退転」という言葉を使います。この場合の「不退転」とは「何ものにも屈せず、固く信じて心をまげないこと」という意味です。時には、そのような決意をもって事にあたることは必要ですし、またそのような決意を持つことはとても尊いことです。

 しかし、決意したとおりに事がはかどらず、挫折してしまうことの方が多いのではないでしょうか。その原因は、自分自身が未熟であったり、方法が間違っていたり、そもそも目的そのものが間違っていることもあります。あるいは、なかなかやっていることを周囲に理解してもらえなかったり、思わぬ事態に巻き込まれて、やむなく撤退せざるを得ないこともあるでしょう。いずれにしても、あらゆる困難を乗り超えていく「正しい智慧」がなければ、「不退転」であることは難しいのです。

 もともと「不退転」とは、自己への執われを離れる修行によって、「正しい智慧」を身につけ、迷いの因である煩悩に振り回されることがなくなれば、決して仏道を退転することがなくなる、ということを表す仏教語なのです。これを「不退転の位に入る」といい、またこのような境地に到達した人のことを「正定聚」と名づけ、正しい智慧を開いたお方という意味で「聖者」と呼ぶのです。

 それに対して、煩悩に振り回され続ける人のことを「凡夫」と名づけます。親鸞聖人は『一念多念文意』というお書物に、

  「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、
  ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、
  水火二河のたとへにあらはれたり。

とおっしゃっています。

 ならば、真実信心を得た人は、なぜ「正定聚」といわれ、「不退転の位に入る」といわれるのでしょうか。それは、真実信心とは「阿弥陀」という仏さまの智慧の言葉(本願の名号)を素直に聞き入れることだからです。たとえこの身は愚かな凡夫であっても、仏さまの智慧に導かれる人は、凡夫のまま聖者の仲間入りをしているのです、と親鸞聖人は喜ばれました。ある方がそのことを、

  今日もまた 「連れていくぞ」の声聞かば
  道知らぬ身も 迷いやはする

と歌われています。


 無理なおしえじゃないわいな(123号より)

  聞いてみなんせ まことの道を
  無理なおしえじゃないわいな

 妙好人おかるさんは聴聞を重ねた末、ようやく到達した境地から、浄土真宗の教えをこのようにうたっています。 

 おかるさんは今から二百年ほど前、下関の沖にある六連島(むつれじま)という小さな島に生まれました。幸七という実直な村の青年を養子に迎え、平和な日々を過ごしていましたが、それも束の間、幸七の浮気のために平和な家庭がずたずたになってしまったのです。

 勝ち気ではありましたが、純情そのものであったおかるさんは、夫に裏切られた思いと、夫をうばった女に嫉妬の炎を燃やします。そして二人とも殺してやりたいような思いにかられる一方で、夫はきっと帰ってきてくれるに違いないという思いに揺れ動く日を過ごしました。しかし、これが聞法の機縁になったのです。

 村の中央に西教寺という本願寺派のお寺がありますが、当時の住職、八代目の現道師はおかるさんの気性をよく知っていて、腹の立つことがあったらまずお寺に駆け込むように言いました。こうして聴聞の日々が始まるのでした。しかし、聴聞したからといってすぐに心が安らぐというものではありません。それどころか「罪悪深重の凡夫をお助け」と聞いても、「罪悪深重の凡夫」という言葉ばかりが自分の耳に残り、次第に仏法を聞くことが辛くなっていきました。その頃の心境をこのようにうたっています。

  こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ
  聞かにゃ苦労はすまいもの

  聞かにゃ苦労はすまいといえど
  聞かにゃ落ちるし 聞きゃ苦労

  今の苦労はさきでの楽と
  気やすめいえど気はすまぬ
  すまぬ心をすましにかかりゃ

  雑修自力とすてらるる
  すてて出かけりゃなお気がすまぬ

  思えば有念 思わにゃ無念
  どこにお慈悲があるのやら

 住職の現道師は、おかるさんのこんなすがたを見て、「自分に力がないばかりにおかるを悲しませている。申し訳ないことだ」と語っていますが、このような住職のお導きがあったればこそ、やがておかるさんは広々とした阿弥陀さまのお慈悲の世界へと心が開かれていったのでしょう。やがてこんなうたをうたうようになりました。

  きのう聞くのも 今日またきくも
  ぜひに来いとの およびごえ

  聞いてみなんせ まことの道を
  無理なおしえじゃないわいな

  ただでゆかれる身をもちながら
  おのがふんべついろいろに

  おのがふんべつさっぱりやめて
  弥陀の思案にまかしゃんせ

 浄土真宗とは、私の心がどれほど愛憎の狭間で揺れ動こうとも、常に大悲をもって私を抱き続け、「お前のいのちは、私が引き受けた」とよび続けてくださる阿弥陀さまの声を聞いていく教えなのです。


 若不生者のちかひゆゑ(122号より)

 寺報表紙のご和讃

  若不生者のちかひゆゑ
  信楽まことにときいたり
  一念慶喜するひとは
  往生かならずさだまりぬ

 浄土真宗の教えの特色である「他力」ということの本当の意味を知る上で、表紙のご和讃はとても大切な一首です。
 
 阿弥陀さまは、法蔵菩薩という修行者であったとき、苦悩を抱えるすべての人々にとって、大きな安らぎとなるような仏になろうと決意され、本当の安らぎの場(浄土)を建立するために、四十八の誓い(本願)を立てられました。これを「法蔵菩薩の四十八願」といいます。
 
 その四十八願の中で、これらの誓いがすべての人々のためであることをあらわされたのが第十八願でした。法然聖人はこの願こそが四十八願の要であり、また根本であるという意味で、この願を「本願」とよばれました。第十八願とは、

  私が悟りの仏になったとき、すべての人々が(私の言葉を聞いて)心の底から疑いを持つことなく、
  私の国(浄土)に生まれたいと願い、私の名(南無阿弥陀仏)を称えたとしよう。
  その中に、一人でも私の国に生まれることができない人があるならば、私は悟りの仏とはなりません。

というお誓いです。親鸞聖人は、この誓いの中に「若不生者(もし一人でも私の国に生まれることができなければ)、不取正覚(私は悟りの仏とはなりません)」 とあることから、第十八願を「若不生者の誓い」といわれているのです。

 これは「たとえ仏になったとしても、一人でも救えない人があれば、私にとって仏となったことにはならない」という意味で、この言葉にこそ「すべてのものを救う」という大悲のお心がこめられていると、親鸞聖人はご覧になったのです。このようなお誓いを成就して「阿弥陀仏」という仏さまになられたということは、「すべてのものをもらさず救う仏さま」になられたということなのです。ですから、阿弥陀さまは自信をもって「私にまかせなさい」とおっしゃるのです。

 何のために生き、どこへ向かっていこうとしているのかも知らず、都合のいいことはどこまでも求めてやむことがなく、都合の悪いことはなんとしてでも排除しようと悪戦苦闘しながら、ただ人生を空しく過ごしている、というのが私たちのいつわらざるすがたです。そんな私たちに、生きる意味と、向かうべき方向を知らせる言葉、それが自らの悟りの名にかけて「南無阿弥陀仏(必ず救う、我にまかせよ)」と告げられる阿弥陀さまの大悲のよび声でした。

 この言葉を素直に受け入れたそのとき、「浄土に往生することに間違いない」と、安堵して悦ぶ心がおこります。これを「信楽」といい「他力の信心」といいます。こうして、苦悩多き境界を「阿弥陀さまと共に浄土に向かって生きる」という生き方が、今、ここから始まるのです。


 西路を指授せしかども(121号より)

 寺報表紙のご和讃

  西路を指授せしかども
  自障障他せしほどに
  曠劫以来もいたづらに
  むなしくこそはすぎにけれ

 表紙のご和讃は『高僧和讃』「善導讚」の一首です。このご和讃を拝読するとき、なぜか幼き頃、実家のお寺の保育園の卒園式に歌った歌を思い出すのです。

 西も東も知らぬのを
 手をとり教えていただいて
 こんなによい子になりました
 先生ほんとにありがとう
 
 よい子になったかどうかはわかりませんが、当時は「西も東も知らぬのを」という歌詞の意味もわからないまま、ただ教えられたとおりに歌っていました。大人になってから、「道理がわかっていない子ども」というように、子どものことを表す慣用句であることを知りました。

 しかし、仏さまの教えを聞くようになってから、「西も東も知らない」のは、けっして子どもだけではなかった、と思うようになりました。皆さんは初めての場所に行ったとき、方向感覚を失い、道に迷った経験はありませんか。たとえば、観光旅行に出かけて宿に着いた時、とっぷりと日が暮れていたりしたら、それこそ、どちらが西か東かもわかりません。

 ところが夜が明けると、それがわかるのです。朝日が昇って来る方角、それが東。そして、やがてその太陽が沈んでいく方角、それが西です。北半球ならば、太陽の動いていく道筋(赤道)に背を向けるのが北、向かっていく方角が南です。

 もともと「東」という字は、朝日の昇ってくるさまをあらわす象形文字で、「西」は酉(とり)の巣をあらわす象形文字で、夕日が沈むさまを見て、その方角(西)にはこには全てのいのちの安らげる場所があると考えたということでしょう。「北」は、もともと人と人とが背中合わせの状態をあらわす象形文字で、太陽に背を向けていく方角、逆に「南」は家の中に暖かみを取り入れるということで、南という方角を表すようになりました。いずれも、昔から変わらない太陽の動きを基準にして、方角が決められたのです。

 さて、「西路を指授せしかども」とは、仏さまが太陽の沈む西の方角を示し、そこに阿弥陀さまの極楽浄土があると説かれ、祖師方もそれを受け伝え、願うべき安らぎの世界を授けてくださったけれども、ということです。ところが、人生の行く末を知らないばかりか、知ろうともせず、自ら仏さまの言葉を拒絶するにとどまらず、他人の道までもさえぎり、愛と憎しみのはざまで、むなしく人生を過ごしてきたのが、仏さまの見そなわす私のいつわらざる姿だったのです。


 無明のやみをてらす(120号より)

寺報表紙の標語

 尽十方の無碍光は
 無明のやみをてらしつつ
 一念歓喜するひとを
 かならず滅度にいたらしむ

 山科の本願寺に新年のあいさつにやってきた道徳というお弟子に、蓮如上人は「道徳、いくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし」と仰せになったということです。ところで「お念仏を申す」ということは、いったいどんな意味を持つことなのでしょうか。

 親鸞聖人はそのお心を『尊号真像銘文』というお書物の中出、「南無阿弥陀仏」と同じ意味を持つ「帰命尽十方無碍光如来」という言葉を解釈されて、

  「尽十方無碍光如来」と申すすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり、「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽くしてことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしととなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申す阿弥陀仏なり。この如来はすなはち不可思議光如来と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。

と味わってくださいました。さまざまな苦悩を抱えながら、自分自身の人生をどのように生きたらいいのか本当には知らない私たちのすがたを「無明」といわれ、「灯りも持たずに闇夜を歩くようなものだ」とたとえられました。その人生の闇を照らす灯りが、南無阿弥陀仏なのだよとお示しです。

 先日、新幹線に乗っているとき、すっかり日も暮れ、暗くなった窓の景色を眺めると、そこに明るいお月さまが輝いていました。月はみずから光を放ち、夜でもその存在を知らせてくれます。そして月の光が闇夜を照らすのです。

 阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」というお念仏の声となって、私たちに自らの存在を知らせ、闇のような世の中を生きる私たちを導いてくださるのです。


 南無阿弥陀仏の親に遇う(119号より)

 寺報表紙の標語

  南無阿弥陀仏で 親を知り
  南無阿弥陀仏の 親に遇(あ)い
  南無阿弥陀仏と 二人づれ

 ※伝灯奉告法要御親教「念仏者の生き方」(ご文は省略します)

 先の文章は小さい字で詰めて書いているので読みにくいかもしれませんが、昨年十月一日、「伝灯奉告法要」の初日に御門主が発布された御親教です。ここに私たち宗門の人々が目指すべき「念仏者の生き方」を示されました。

 この御親教は、あらためて私たちに「浄土真宗の念仏者」とはどのような者のことをいうのか、と問いかけられたものと、私は受けとめています。

 それについて思い浮かぶのが、生前、梯實圓先生がよくおっしゃっていた、「私たちの人生にとって一番大切なことは、親鸞聖人が出遇われた阿弥陀さまに出遇わせていただくことです」というお言葉です。

 親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」の六字のお心を、「本願招喚の勅命(願いをもって私たちを招き、よびさまされる声)」であると示されました。そして、その声によびさまされ、「あなたの仰せにしたがいながら、この人生を生きていきます」と阿弥陀さまにおまかせしていることを信心といわれたのです。

 こうして、「南無阿弥陀仏」とお念仏するところ、阿弥陀さまと私との間に対話の回路を開いてくださったのが、親鸞聖人であり、蓮如上人であると梯先生は教えてくださいました。

 九州の布教使さんが作られた「念仏子守唄」(五木の子守歌の替え歌)に、

  おどんがお父さんは 南無阿弥陀仏
  おどんがお母さんも 南無阿弥陀

  もろたもろたよ 六字の智慧を
  愚痴が感謝に かわる智慧

とあります。一人一人が「南無阿弥陀仏の親に遇(あ)い、南無阿弥陀仏と二人づれ」の生活をしていきたいものです。


 だいじょうぶ、だいじょうぶ(118号より)

 月曜日から金曜日まで、昼二時から夕方にかけて毎日放送の「ちちんぷいぷい」という番組がありますが、ご覧なっている方もいらっしゃることと思います。その番組の中に、絵本作家の長谷川義史(よしふみ)さんが、色々なところを訪ねて、心に残った印象深いことを絵にしていくという「とびだせ絵本」というコーナーがあります。

 六月八日の「とびだせ絵本」は、和歌山県の御坊市を訪ねられました。旅の終わりの方で訪ねられたのが、本願寺日高別院。もともと「日高御坊」とよばれていて、御坊市というまちの名前の由来にもなっています。そこで描かれたのが阿弥陀さまのお姿でした。その阿弥陀さまは少し右手が大きく作られています。また、ご輪番のお話を聞かれたからでしょうか。長谷川さんは阿弥陀さまの右手を大きく書かれて、その絵に「阿弥陀様 オッケー オッケーって 言うてくれてはる」と添え書きされました。

 阿弥陀さまの右手は「施無畏印」といって、「だいじょうぶだよ」と安心を与えてくださるサインです。ちなみに左手は「与願印」といって、本当の願いを与えてくださるサインです。「一緒にお浄土に連れていき、悟りの仏にしますよ」ということを知らせてくださるのです。

 浄土真宗のご本尊の阿弥陀さまは、お木造であっても、絵像であっても、また「南無阿弥陀仏」というお名号であっても、どれも私たちに同じメッセージを送り続けていてくださるご本尊なのです。ご本尊ばかりではありません。私たちが口に称える「南無阿弥陀仏」のお念仏も、阿弥陀さまの「必ずたすけるぞ、我にまかせよ」というおよび声であると、親鸞聖人はお示しになりました。

 『浄土和讃』「小経讃」に、
  十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる

とあります。「阿弥陀」というお名前は、「あなたをおさめとって捨てない仏さま」であるということを表す名前なのでした。ですから、「南無阿弥陀仏」とは、「あなたを救う仏はここにいますよ」という阿弥陀さまの名告り(なのり)なのです。
 「お母さんはここにいますよ」という声を聞いて、子どもは安心して「お母さん!」と親の名をよびます。そのように、お念仏する人には、「いつも阿弥陀さまがご一緒してくださっている」という大きな安心があると、親鸞聖人は明らかにしてくださったのです。


 仏法は聴聞にきわまる(116号より)

 『蓮如上人御一代記聞書』末(一九三条)の中に、

  一、「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、
  水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」
  といへる古き詞あり。
  
  いかに不信なりとも聴聞を心に入れまうさば、
  御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
  
  ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云云。

というお言葉があります。

 お寺にお参りくださる方の中で、「なんべん聞いても、すぐに忘れて、どんないい話も覚えられません」というお方があります。一方で、お話を忘れないようにと、必死に耳を傾けられている方や、お話をメモされている方もあります。

 お話を覚えることは悪くはありませんが、浄土真宗のみ教えは「立派になって助かっていく教え」ではありませんから、一所懸命になって聞く必要も、覚えておく必要もないのです。むしろ、聞いたことを自分の手柄にして、阿弥陀さまのお慈悲をおろそかにしてしまう方が心配です。

 さて、『聞書』の「至りてかたきは石なり(極めて堅いのは石である)」とは、私の心の頑なさをたとえられています。「至りてやはらかなるは水なり(極めて柔らかいのは水である)」とは、阿弥陀さまのお慈悲の心の柔らかさをたとえられています。

「水よく石を穿つ」とは、雨のしずくが滴り落ち続けることで、極めてかたい石にも穴があくように、阿弥陀さまのお慈悲が、私の頑な心に穴をあけ、染みこんでくるということをたとえられています。 「心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」とは、阿弥陀さまのお慈悲が、私の心を貫き徹すならば、悟りを得られないはずはない、ということをたとえられた言葉です。

 欲の心、怒りの心、妬みの心に振り回されがちな私には、その心を断ち切って悟りを得ることは、到底かなわないことでしょう。そのような私を目当てとし、どうすれば悟りの仏にすることができるかと、気の遠くなるような長い時間をかけて考え抜かれ、その方法をただ「お念仏ひとつ」と仕上げてくださったのが、阿弥陀さまというお方でした。

 お聴聞とは、阿弥陀さまのお慈悲に包まれてあることを、ただほれぼれと聞かせていただくばかりなのです。「仏法は聴聞にきわまる」とは、ただ阿弥陀さまのお慈悲に身を浸すことでした。


 よろこびまもりたまふなり(115号)

 新年を迎えるにあたり、今年も元旦会でお勤めする「現世利益和讃」から、表紙の一首を味わいます。
 
 「南無阿弥陀仏」というお念仏は、阿弥陀如来さまが「必ずたすけるぞ、我にまかせよ」と、私に救いを告げてくださるよび声です。 そればかりか、あらゆる世界の数かぎりな仏さま方が、何重にも取り囲んで、「ようこそお念仏をしてくれたましたね」と喜び、お念仏する心が揺らぐことのように、お守りしてくださるというのです。

 仏教では、私たち人間のことを「凡夫」、すなわち「おそれの去らないもの」といわれるように、ちょっとしたことで動揺して自分を見失い、他人に八つ当たりしたり、逆に自分の殻に閉じこもってしまいやすいのです。

 そのような私こそが、阿弥陀如来さまの心配の種でした。だからこそ、「私はここにいるよ、けっしてひとりぼっちにはさせない」と、お念仏の声となって私を呼び続けてくださるのです。それに加えて、十方の仏さま方にも、お念仏する人を喜び、守ってくださるように願われたのでした。

 そのことは『阿弥陀経』の後半のところにも説かれています。数え切れないほどの仏さまが、念仏する人をほめ、お守りくださることが説かれた後、

  舎利弗よ、もし良き人たちが、このように仏さま方が説かれた阿弥陀仏の名と、
  この経の名を聞くならば、これらの人々はみな、すべての仏さま方に守られて、
  この上ないさとりに向かって退くことのない位に至ることができる。
  だから舎利弗よ、そなたたちはみな私の説くことと、仏さま方の説かれることを
  深く心にとどめるがよい。

と説かれています。その仰せのとおり、お念仏申す人生を送りたいものです。


 夜が明けるよ(114号より)

 今年の八月二十四日に、住職でもありシンガーソングライターでもある、やなせななさんの新しいアルバム『夜が明けるよ』が発売されました。平成二十六年に浄光寺で勤められた「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要」の記念コンサートにお招きをしましたので、素敵な歌声を覚えておられる方も多いことと思います。

 このアルバムのテーマは、〈いのちと暮らし〉。朝日が昇り、光が射して、夜の闇が破られ、人やものが照らされていく。そこに営まれる、さまざまな世代の人々の暮らしぶりが、愛おしむように、素敵な歌で描かれています。

  遠くから ひかりが射す
  朝を待つ 木々の葉にも
  打ち寄せる 波の上にも
  あなたの暮らす街角にも
  
  遠くから ひかりが射す
  かなしみを 胸に抱えて
  泣き疲れ 眠るあなたの
  きのうの傷口にも

  呼びかけるように
  寄り添うように
  おはよう おはよう

 誰もが、ただ一度きりの、かけがえのない人生を、ひたむきに生きています。そこには、誰にも代わってもらえない、大きな荷物を背負うこともあり、苦しみや悲しみをわかってもらえず苛立つこと、大切な人との別れに、心に穴があいたように、空しさを感じること、時には怒りに心を震わせ、あるいは、悲しみに打ちひしがれ、人を恨んだり、この世をはかなんだりすることさえもあります。

 そのような一人一人の人生を、いや、人間だけでなく、生きとし生けるいのちを、愛おしむ思いで見てくださっているのが、阿弥陀如来という仏さまでした。

 親鸞聖人は、『正像末和讃』の一首に、「南無阿弥陀仏」の名号は、「無明長夜の灯炬」であるとお示しです。だから、「智眼くらしとかなしむな」と、苦しみや悲しみを抱えて、先が見えない時も、嘆くことはない。いつでも、闇を照らす光となって、あなたを温かく包み、導いてくださるのです、とおっしゃいます。

 このアルバムを聴いていると、そんな阿弥陀さまの温もりを感じます。


 無明長夜の灯炬なり(113号より)

親鸞聖人は、『正像末和讃』に、

  智慧の念仏うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし

とうたわれています。阿弥陀さまは、法蔵という名の修行者であったとき、「すべての人々を漏らすことなく悟りの世界、浄土に迎えとりたい」と誓われ、自らの悟りの智慧の徳を、「南無阿弥陀仏」の名号ひとつにおさめ、その名号を私たちに与えて、自らの願いを信ぜしめ、念仏せしめてくださるから、私たちは必ず悟りの浄土へ生まれゆくのである、といわれるのです。それゆえ続く和讃には、

  無明長夜の灯炬なり
  智眼くらしとかなしむな
  生死大海の船筏なり
  罪障おもしとなげかざれ

と、たとえ解決の糸口さえ見えない、長いトンネルに入ったかのような大きな悩みを抱えることになったとしても、「誰も私の悩みをわかってくれない」と、ひとりで嘆いたり、悲しんだりすることはない、とおっしゃるのです。

 最近、なぜか子どもの頃に聞いた「空がこんなに青いとは」という歌が、私の頭をよぎります。調べてみると、作詞は、たくさんの素敵な歌を作られている岩谷時子さんの手によるものでした。

  知らなかったよ
  空がこんなに青いとは
  手をつないで歩いて行って
  みんなであおいだ空
  ほんとに青い空
  
  空は教えてくれた
  大きい心を持つように
  友だちの手をはなさぬように

  知らなかったよ
  空がこんなに青いとは
  なぜかしら悲しくなって
  ひとりで見上げた空
  とっても青い空
  
  空は聞かせてくれた
  風にも負けない雲のうた
  ひとりでも もうなかないように

人生に悩みはつきものです。でも、すでに阿弥陀さまは、私たちの悩みをご存じで、「忘れないで、私がついているから大丈夫」と、呼び続けていてくださるのでした。


 心を弘誓の仏地に樹て(112号より)

親鸞聖人は、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の結びに、

 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、 至孝いよいよ重し。

と、この書物を書かれたお心持ちについて述べておられます。特に「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」というお言葉は、ご本願に遇わせて頂いた者の生き方を示されたものとして、大切に味わわせて頂かねばならないお言葉です。

 「心」という字は「こころ」と読みますが、また「しん」とも読みます。「心」は「芯」にも通じ、「中心」という意味にもなります。そして、「たてる」ということを、「建」とか「立」でなく、「樹」という字で表されています。

 木が大地に根を張り、大地から栄養分を吸収し、たとえ大風が吹いても、土の中に張った根に支えられ、倒れることがないように、苦難多き人生を生きぬく上での芯(信心)が、阿弥陀さまの広大で力強いお誓いの大地に根を張り、しっかりと支えられていることを、「心を弘誓の仏地に樹て」と言われているのです。

 ところで、禅宗で大切にされている「寒山詩」に、「八風吹けども動ぜず」という言葉があります。その八風とは、

 「利(り)」意にかなう利益
 「誉(よ)」陰で名誉を受ける
 「称(しょう)」目の前で称賛される
 「楽(らく)」様々な心身を喜ばすこと

という人が求める四つのこと(四順)と、

 「衰(すい)」意に反する損失
 「毀(き)」陰で不名誉を受ける
 「譏(き)」目の前で中傷される
 「苦(く)」様々に心身を悩ますこと

という意に反する四つのこと(四違)を言うのだそうです。どうでしょうか。有頂天になったり、腹を立てたり、いずれも私たちの心を揺るがすもので、「八風吹けども動ぜず」とはいかないようです。

 親鸞聖人は、たとえ心を揺るがす「八風」に吹かれ、つい思い上がることや、落ち込むことがあっても、阿弥陀さまのお慈悲に支えられている人は、けっして信心を揺るがすことはなく、そのような思いを、広大なお慈悲の海に、流していけるのです、と仰せになりました。


 わかきとき仏法はたしなめ(111号より)

 『蓮如上人御一代記聞書』本(六三条)の中に、

  仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと総ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。
  ただわかきときたしなめと候ふ。

というお言葉があります。

 先日、ある方とお話をしている時、「うちの親が、『いつか時間に余裕ができたら、その時は、あちこち旅行にいきたい』」と言っていたけど、いざ行けるという時になったら、『足が不自由になった』とか、『旅行に行っても、食べられるものが少なくなり、旅行に行っても楽しみはない』と言っていた。行きたいところには、行けるときに、時間を作って、行かないといかんな」という話になりました。

 私たちは、先のことを考えるについても、今の状態が続くつもりで、自分がどんどん年を取って、体そのものの自由がきかなくなることを、考えの中に入れようとは思わないものです。そして「いつかそのうち」と先送りしてしまいます。

 さて、学生時代によく歌ったロシア民謡に「赤いサラファン」があります。

  赤いサラファン ぬうてみても
  たのしいあの日は 帰えりゃせぬ
  
  たとえ若い娘じゃとて
  何でその日がながかろう
  
  燃えるような そのほほも
  今にごらん いろあせる
  その時きっと 思いあたる
  
  笑ろたりしないで母さんの
  言っとく言葉をよくおきき
 
  とは言えサラファン ぬうていると
  お前といっしょに若がえる

という歌詞(訳詞)です。学生時代には、何気なく歌っていたのですが、私も還暦が近くなったからでしょうか。ふと、この歌が頭をよぎるようになりました。古今東西、年老いた母親が若い娘にする話は、変わることがないのでしょうか。

 「笑ろたりしないで母さんの、言っとく言葉をよくおきき」という歌詞は、先日の報恩講で、ご講師の深野先生が、「今、聞いておくことですね」といわれていたことと重なります。

 私の過去・現在・未来を見通し、放ってはおけないと、願い立たれた阿弥陀さまのお言葉、そして九十年の生涯を生き抜かれた親鸞聖人ならではのお言葉を、聞けるうちに聞いておきたいものです。「仏法には、明日ということあるまじく候」という言葉もありますから。


 真実信心をまもるなり(110号より)

無碍光仏のひかりには  無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく  真実信心をまもるなり


 「一年の計は元旦にあり」といいますが、皆さまは、来年はどんな一年にしたいか、または、どんな一年になってほしいと願っておられるでしょうか。まずは、「どうか無事に一年を過ごすことができるように」と願われる方は多いのではないかと思います。

 しかし、すでにお釈迦さまがお示しのとおり、この世は「娑婆(あらゆることに堪え忍ばねばならない世界)」であり、また親鸞聖人も「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰せのとおり、どんな思いがけないことが起きても少しもおかしくはないと、覚悟しておかなければなりません。

 まして、この身そのものが、老・病・死という苦を抱えた存在であるならば、その苦を受けとめて生きていける道を求めることを、何よりも優先しなければならないというべきでしょう。しかし、私たち凡夫は、そうした確かな道を見極めていく智慧を持ち合わせてはいないのです。その凡夫を目当ての教えこそが、念仏の教えでした。

 無碍光とは、阿弥陀如来さまのお徳を讃えた十二光の一つですが、ことに親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」という十字の名号を大切にされていますので、無碍光仏とは、万人を障りなく救う阿弥陀さまのことなのです。その無碍光仏の光に、無数の阿弥陀さまがおられるとは、おもしろい表現です。これは次に「化仏」とあるように、私たちにふさわしい、様々な姿をもって現れてくださる阿弥陀さま、ということを表しています。

 阿弥陀さまは、どのような苦難に出遇おうとも、あらゆる手だてをもって、真実の世界へ迎え取ろうと、私たちの信心を守ってくださるのです。


 信心の智慧なかりせば(109号より)

 仏教では悟りのことを「涅槃」という言葉であらわします。これは「ニルヴァーナ」という言葉を、漢字に置き換えたもので、「滅度」と翻訳されるように、「煩悩の炎を吹き消し、安らぎの境地に到る」ということを意味しています。

 お釈迦さまは、私たちの苦しみの原因は、自己への執われによって引き起こされる、貪欲(むさぼり)とか瞋恚(いかり)などの煩悩である、ということを明らかにされました。ですから、自己への執われを離れ、涅槃に到る、真実の智慧の眼を開くことが大切である、と説かれたのです。

 しかし一方で、親鸞聖人は『一念多念文意』に、

  「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

とあるように、私たち凡夫は、いのち終わるまで煩悩から離れることはできないといわれているのです。だとすれば、たとえこの世のいのちを終えても、また苦しみの生を繰り返すよりほかにはない、ということになります。一面に挙げた和讃に「信心の智慧なかりせば、いかでか涅槃をさとらまし」といわれているのは、そういうことをあらわしていました。

 しかし、阿弥陀如来の本願名号を、はからいなく受け入れる人は、「智慧の念仏」「信心の智慧」を頂き、その智慧に育てられ、導かれていくので、この世のいのちを終える時には、その阿弥陀如来の智慧によって煩悩が転じられ、悟りの仏にならせて頂けるのです。

 それは「智慧の念仏うることは、法蔵願力のなせるなり」とあるように、法蔵菩薩が、すでに煩悩具足の凡夫を、浄土に往生せしめ、仏にならしめようと願われ、自らの悟りの智慧のすべてを、名号ひとつにおさめて、私たちに与えてくださるからでした。

 「今日もまた、連れてゆくぞの声聞かば、道知らぬ身も、迷いやはする」と歌われた方がありました。たとえ愚かな凡夫でも、確かな智慧の眼を開かれた阿弥陀さまのとご一緒の人生は、煩悩を滅した涅槃に到るべき人生なのです。

※一面に挙げた和讃(正像末和讃)
   智慧の念佛うることは  法蔵願力のなせるなり
   信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとるべし


 来迎たのむことなし(108号より)

親鸞聖人は、お弟子に宛てられた手紙の中で、

  真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
  信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

といわれています。
 親鸞聖人の頃までは、浄土の教えといえば、臨終の時、仏さまのお迎えがあって、浄土に往生させてもらう、という考え方が一般的でした。ですから、臨終の良し悪しが、往生できるかどうかの大問題だと考えられていたのです。それに対して、親鸞聖人はこのお手紙に、「来迎の儀則をまたず」とあるように、臨終の行儀を調える必要もなく、臨終の良し悪しを問題にすることもない、といわれたのです。

 はじめに「真実信心の行人」とありますが、まず「行人」とは「南無阿弥陀仏」と、お念仏を称える人のことです。これは阿弥陀さまによって選定され、この六字に、往生成仏すべき功徳がこめられた、「大行」とよばれる行なのです。よく、浄土真宗には「行」はない、と勘違いされる方がありますが、「行」のない仏教はありません。浄土真宗には、阿弥陀さまから与えられた、「お念仏する」という「大いなる、すばらしい行」がある、ということを心得ておきたいものです。

 さらに、ここで「真実信心の行人」といわれているのは、わが口で称える「南無阿弥陀仏」を、「必ずたすけるぞ、我にまかせよ」という「阿弥陀さまの喚び声」であると、わが耳に聞き、「必ず浄土に往生させ、仏の悟りを開かせる成仏させるから、安心して自らの人生を生き抜いてくれ」と、阿弥陀さまが私に告げてくださっているのだ、と聞き受けている人のことでした。

 「真実信心の行人」は、阿弥陀さまの救い光の中に包まれている人であり、その救いから、けっして漏れることはなく、この世のいのちを終える時には、浄土に往生して、仏の悟りを得ることが、すでに決定しています。ですから「正定聚(仏になることに決定した仲間)」といわれたのです。この人は、阿弥陀さまと共に、苦難多き人生を、浄土に向かって、力強く生きていくことができるのです。


 愚癡にかえりて(107号より)

最近、全国放送になり、放送時間もゴールデンタイムになった、「ぶっちゃけ寺」という番組をご覧になっている方もおられることと思います。爆笑問題という漫才グループが司会をして、仏教各宗派のお坊さんに、いわゆる「ぶっちゃけトーク」で本音を語ってもらおう、という番組です。他宗派のお寺のことや、お坊さんのことは、お坊さんである私も、あまりよく知らないので、時間のある時は、興味深く見ています。

 ある放送日、お坊さんたちはどんな修行をしているのだろうか、という話題になったときのことです。各宗派のお坊さんたちの、笑いをまじえながらの割と真面目なトークが続いていましたが、浄土真宗のお坊さんに順番が回り、「浄土真宗には修行がありませんから」という答えで、なんとなくその場に、冷めた空気が流れました。こういう話題になると、浄土真宗は分が悪い、というのが正直なところです。

 でも、けっして「浄土真宗には修行がない」わけではありません。他の宗派(いわゆる聖道門と呼ばれる宗派)とは、修行のあり方、その意味が異なるのです。 親鸞聖人が、法然聖人の法語を集められた『西方指南鈔』というお書物の中に、「浄土宗の大意」という法語があります。(「浄土宗」とは「往生浄土宗」という意味で、ここでは「浄土真宗」のことを指しています。)そこには、

  聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて、極楽にむまると云々。

といわれています。聖道門の修行とは、修行するにふさわしい環境の整った場所で、自分自身の心を鍛え、調えていくものです。それに対して、浄土門の修行とは、煩悩うずまく世界に身を置き、仏さまの教えを聞きながら、教えのとおりには生きられない、愚かな凡夫であることを知らされる生き方のことなのです。

 この世は、老いや病いだけではなく、人間関係や、子育てに悩んだりなど、悩みの尽きない「娑婆」(あらゆることに堪え忍ばなければ生きていけない世界)であると見定めて、阿弥陀仏の救いを受けいれ、本当の安らぎの世界(極楽浄土)に生まれることを目指すほかはないと思い取り、しかもこの娑婆を力強く生きていくことを説くのが浄土の教えなのです。


 
 籠(かご)を水につけよ(106号より)

『蓮如上人御一代記聞書』本(八八条)の中に、

 人のこころえのとほり申されけるに、 わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたく もたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身を ば法にひてておくべきよし仰せられふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。

というお言葉があります。
 ご門徒の皆さま方から、「お聴聞をしていても、耳に残るどころか、右の耳から左の耳へ、すうっと抜けていくばかりで、ちっとも身につかない。ありがたい話を聞いたと思っていても、本堂から出た頃には、もうすっかり忘れてしまっている」ということを聞くことがあります。しかし、心配することはありません。蓮如上人の時代でも、やはり同じようなことが言われていたようですから……。

 ある時、ご門弟の方が、「私の心はまるで、隙間だらけの籠(かご)に水を入れるようなもので、仏法を聞いている場所では、ありがたいとか、尊いと思うのですが、水から上げた籠はすぐに水が抜けて空っぽになってしまうように、お聴聞していても、すぐに心は元に戻ってしまいます」と自分の心得を、正直に蓮如上人に申し上げました。すると、蓮如上人はこのようにおっしゃいました。「ならば、その籠を水につけよ」と。「わが身を法(おみのり)にひたしておけばいいのだ」と。

 何かを覚えて、賢くなるためにお聴聞するのではないのです。覚えることが救いなら、忘れた瞬間に救いから漏れてしまいます。阿弥陀さまは、縁に触れたら、何をしでかすかわからない私をこそ放っておけないと「南無阿弥陀仏」の声になって、いつも私をよび続けてくださいます。信心とは、私が阿弥陀さまをつかんで離さない、ということではなく、私を離さない仏さまに、手放しして、ほれぼれとおまかせすることでした。

 悪いのは、阿弥陀さまを横に置き、自分の考えばかりを頼りに生きようとすることです。日頃からお聴聞を重ね、縁に触れてお念仏を申し、仏さまのお慈悲につつまれた生活をすべきことを、「その籠を水につけよ」とおっしゃったのです。


 よろこび まもり たまふなり(105号より)

南無阿弥陀仏をとなふれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまふなり

 元旦のお参り(元旦会)には、「正信偈」のお勤めの後に、「現世利益和讃」十五首を一緒に唱えます。最後の一首が、表紙に掲載した和讃です。苦悩多き人生を、「南無阿弥陀仏」と称えさせ、心豊かに生きさせよう、というのが阿弥陀さまの願いでした。そのお念仏の声は、「必ず助けるぞ、我にまかせよ」との阿弥陀さまのお喚び声でもあり、また「必ずたすかると、仏さまにおまかせいたします」と応えていく、阿弥陀さまのお慈悲に包まれ
た安心と、感謝の言葉でもありました。

 多くの人は「どうか病気も事故も、周囲の人たちとのトラブルもなく、無事平穏な毎日を過ごせますように」と願います。しかし、どんなに祈っても、願っても、思うようにならないのが現実の世の中のようです。ですから、一番のご利益は、たとえどんな問題が起ころうとも、その問題を乗り越えていく力を与えることであると、「いのちの親」である阿弥陀さまはお考えになったのです。

 お念仏申すことは、阿弥陀さまの願いにかなうことであり、その願いがおこされた智慧と慈悲にかなっていくことでもありました。そんな私たちを、十方の諸仏が、幾重にも取り囲んで、私たちを守り、導いてくださいます。 すると、今まで見えなかったことが見えるようになり、私を取り囲む世界も変わり、考え方も、生き方も変わってきます。教えに出遇った人の姿を見ていると、つくづくそのように思います。それが仏さまのお育てなのです。

 十月十八日(土)十九日(日)の二日間、親鸞聖人七五〇回大遠忌法要が勤まりました。これを機に一人でも多くのご門徒をはじめ、有縁の方々と共に、「この度の人生は仏さまに出遇い、導かれる人生であった」と、感謝のうちに生き抜かせて頂きたいと思います。

 仏さまの救いは 今 ここに(104号より)

 親鸞聖人は、主著の『教行信証』に、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」と言われています。

 私たちは、この世のいのちを終えるまで、自分の目の前におこる状況次第で、ある時は欲望を追い求めて、足りることを知らず、またある時は、怒りの心にうちふるえ、自分を見失って人を傷つけ、しまいには大切な人を失って、ひとり寂しい思いをする、ということをくり返してしまいます。阿弥陀如来さまのお救いの眼は、まさにそのような私たち一人一人に向けられているのです。

 阿弥陀如来さまの救いは、けっして死んだ後にのみあるのではありません。お釈迦さまによって説かれた『大無量寿経』の教えは、阿弥陀如来さまの救いが、今ここに届いて、私の信心となり、称名念仏となって、私を浄土へ迎えとり、仏とするべくはたらいているのですよ、とお示しです。

 その阿弥陀如来さまの救いを、はからいなく受け入れるとき、たとえ欲の心や怒りの心は捨てられなくても、そのままの私が、阿弥陀如来さまによって導かれ、他の人の仕合わせを願いながら生きる、という人格に育て上げられていく、ということを親鸞聖人は明らかにしてくださったのです。たまに、そのような尊い生き方をしている人に出会うことがあります。

 先日、たまたまJR大阪駅北口で路上ライブをされていた「かど じゅん」さんという方の歌を聴く機会がありました。そこで求めたアルバムの中に「人間浄水器」という歌がありました。その歌の歌詞を少しだけ紹介します。

  僕たち自家製浄水器
  汚れた水をきれいにする
  そのために生まれて来たらしい
  汚れた水をちょっとずつ
  無色透明にしていく
  これが僕の人生の課題みたいです

  (中略)

  無色透明できれいな
  まじりっけのない水なんて 一度の
  人生じゃ作れそうにないのですが
  人生は一度しかないから
  困ったもんだねと今日も動くのです

 私も彼女のように、尊い「人生の課題」を見つけたい、と思いました。


 煩悩具足の聖者(103号より)

 去る五月七日、私にとって長年お育てを頂いた師であり、坊守とのご縁の仲人も勤めてくださった、行信教校名誉校長、本願寺派勧学、梯實圓(かけはし・じつえん)先生が行年八十八歳をもって往生の素懐を遂げられました。 浄光寺にも、私の結婚式、仏教文化講座、住職継職法要と、三度のご縁を頂きましたので、憶えていてくださる方も多いことと思います。

 思い返せば、大学時代、行信教校への入学を決意した夏の日、たまたま仏教青年会の早朝奉仕作業で、本願寺鹿児島別院に来ていて、その後、お参りしたお晨朝の法話に出講されていた梯先生から聞かせていただいたご法話によって、私は進むべき方向を決めたのでした。そして、行信教校入学以来、梯先生には、本当に長年にわたって、多くのお育てを頂きました。先生との思い出は語り尽くすことができません。お別れするのは悲しく辛いことですが、これまでのお育てに心から御礼を申したいと思います。

ところで、梯先生は晩年にこんなことをよくおっしゃっていました。
 私もいつか死ぬ時が来るから、今のうちにお願いしておきます。「あいつ死におったか」ぐらいは言うてもいいけど、「かわいそうに」だけは言わんといてください。お浄土に生まれさせていただいて、仏さんにならしてもらうんやから。
 それと、生きている間に言うたら嘘になるけど、今度、お浄土に参らせてもろうたら、その時は堂々と言わせてもらいます。「あなたの苦労は私が背負うから、あなたは精一杯生きてくださいね」と。(と言いながら、生きている間におっしゃったのですが……。)

 いつも、穏やかな笑みをたたえて私たちに接してくださる先生でしたが、ずっとお世話をさせていただく中、一度だけ、本当にお辛そうで、声をかけるのもはばかられるような時がありました。心配そうに様子をうかがっていると、声を絞り出すようにして「娑婆やね」と、一言だけおっしゃったのです。娑婆を生きる者にとって、苦悩は避けられません。しかし、仏さまの智慧と慈悲に導かれる者には、その苦悩を乗り越える道が開かれる。梯先生は、まさにそのことを自らの生き方の中に示してくださった、煩悩具足の聖者でありました。


 仏法に「明日」はない(102号より)

 『蓮如上人御一代記聞書』末(一五五条)に、

 仏法には世間のひまを闕きてきくべし。 世間の隙をあけて法をきくべきやうに 思ふこと、あさましきことなり。
 仏法 には明日といふことはあるまじきよし の仰せに候ふ。
 「たとひ大千世界に  みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名 をきくひとは ながく不退にかなふな り」
 と、『和讃』にあそばされ候ふ。

というお言葉があります。

 「世間のひまを闕きて」とは、「時間を作って」という意味で、「世間の隙をあけて」とは、「時間的な余裕ができたら」という意味です。私たちは、せっかくご法座が開かれても、「まだまだ寺参りをするような年令ではないから」とか、「仕事に追われていて時間的な余裕がないから」と、仏法聴聞をついつい後回しにしてしまいがちです。

 そんな私たちに、蓮如上人は「仏法は時間を作ってでも聞かせてもらわなければならない。時間的余裕ができたら聞けばよいと思うことは情けないことだ」とおっしゃっています。それは、仏法には「明日」ということがないからであると。

 そんなことを言うけれど、「明日がある」と思うから「今」をがんばって生きることができるし、これからの予定を立てたり、また約束をしたりもできるじゃないか、「明日がない」ということになれば、それはただの絶望ではないか、という声が聞こえてきそうです。

 三年前に起こった東日本大震災で、大切な家族と別れねばならなかった人の多くが、「これが最後になるとわかっていたなら、もっと話したいことはたくさんあったのに。もっと優しい言葉をかけておいたらよかったのに……」と悔やんだそうです。

 明日のことは誰にもわからないと、頭の中では理解しているつもりでも、ついそのことをおろそかにし、本当に大切なことを後回しにしてしまうのは、けっして東日本大震災で被災された方々だけではありません。蓮如上人がつねづね「後生の一大事」とおっしゃっているように、まさに「わが身の問題」なのです。

 あらゆるものが移り変わっていく世間の中にあっては、何をさしおいてでも、「変わることのない確かな命の拠り所」を聞かせていただかねばなりません。それは、世界中が大火の中にあっても、まず聞かせていただかねばならない一大事なのだと、仏さまはお示しです。 


 三日間の報恩講(101号より)


 浄光寺では毎年、三日間の報恩講をお勤めしています。正確にいうと、初逮夜から始まって満日中までの「二昼夜」の法要ということになります。

 報恩講の満日中に拝読する『御俗姓』には、「毎年の例時として、一七ケ日のあひだ、かたのごとく報恩謝徳のために無二の勤行をいたすところなり」とあります。ご本山の御正忌報恩講は、一月九日から十六日まで勤められていますから、その日数は八日間のようですが、『御俗姓』のとおり「一七ヶ日」ということになるのです。

 現在では、昔のようなお勤めをすることはまずありませんが、年回法要などの厳格なお勤めの仕方は、一昼夜で六回の法要を行うものだったのです。一昼夜で六回の法要というのは、一昼夜を、 @逮夜[日没(にちもつ)]、A初夜、B中夜、C後夜、D晨朝(じんじょう)、E日中という「六時」に分けて六度の法要を行うことで、その始まりを「夜に逮(およ)ぶ」という意味で逮夜(=日没時)というのです。

 時間で言うと、逮夜〔日没〕法要(午後四時)、 初夜法要(午後八時)、中夜法要(午前〇時)、後夜法要(午前四時)、 晨朝法要(午前八時)、日中法要(午前十二時、正午)です。一般的には、その時間を法要終了の時間として、そこから逆算して法要を始めている、ということになるでしょうか。

 というわけで、浄光寺では、初逮夜から始まって、初夜(後夜を含む)、晨朝、日中、大逮夜、初夜(後夜を含む)、晨朝、満日中という二昼夜、八座の法要をお勤めしているのです。 「なぜ、報恩講にはそんなに何度もお勤めするのですか?」と尋ねられることがありますが、それは「大切な御開山親鸞聖人のご法事だから」ということを覚えておきたいですね。