154号、9月22日発行
老少・善悪のひとをえらばれず(154号より) |
大学生時代に、父からの電話で、急遽、鹿児島別院の出張所で、お盆参りのお手伝いをするようになったことは、前号でお話ししました。
お盆参りが終わってから、出張所のお坊さんに「仏教青年会の例会を開いているから、よかったら参加しないか」とお誘いをいただきました。そして、先輩から譲り受けたバイクに乗って、毎月、その出張所の仏教青年会の例会に参加するようになりました。参加の回数を重ねていくうちに、少しずつ親鸞聖人の教えに関心を持つようになった私は、気がつくと、もう少ししっかりと教えを聞きたいと思うようになっていました。
大学を卒業してからの進路について長兄に相談すると、そこまで思っているなら、大阪の行信教校に梯實圓という先生がおられるから、会うだけでもいいから会って来い、というのです。そこで、五月の連休を使って行信教校の下見に行き、在校生の皆さんとも色々とお話しをし、一年くらいは学んでもいいかな、という気持ちになりました。
夏休みに入って、出張所の仏教青年会の皆さんから、鹿児島別院の奉仕作業に行こうとのお誘いを受け、朝早く起き、別院まで出かけました。奉仕作業が終わって、そのままお晨朝のお参りをしていると、お勤めの後に演台に立たれたのは、なんと五月にお顔を拝見していた梯實圓先生でした。年に一度、行信教校の卒業生や有縁の方に、ご縁を結んでくださるために、鹿児島に来られていたことを、後から聞きました。本当に偶然のことでした。
そのとき、先生がお話しされたのは、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、、」という言葉で始まる『歎異抄』第一条の話でした。その中で「弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず」というところに話がおよんだとき、「老少をえらばないとは、たった一声うぶごえをあげただけでいのちを終えたとしても、決して無駄ないのちでも、可哀想ないのちでもない、ということです」とおっしゃったのです。本当に驚きました。
うわべだけの言葉ではないことは、堂々とした表情から感じられました。先生はどんな世界を見ておられるのだろうか。一生かかってでもいいから、先生が見ておられる世界を私も見てみたい、と強く思いました。それとともに、「お前も、そのまま生きていていいんだよ」と言われているようで、胸がいっぱいになりました。そして、翌年の春、行信教校に入学して以来、永年にわたって、梯先生にお育てをいただくことになったのです。
仏さまのお手回し(153号より) |
親鸞聖人は「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」というお言葉で、ご自身が阿弥陀さまのお救いにあずかり、お念仏申すようになるまでに、どれほどのお育てがあったことかと心から慶ばれ、私たちにもこの尊いみ教えに出遇ってほしいと仰せになりました。そして、その宿縁について『高僧和讃』「善導讃」には、
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種種に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
と、すべてはお釈迦さまと阿弥陀さまが、私たちに仏の慈悲を育む父母として、さまざまなお手回しをしてくださったものである、と味わっておられます。
振り返ってみれば、私が今こうしてお念仏を称える身とならせていただいたことも、仏さまのお手回しがあったからこそであったなあ、と思わずにはおれません。 縁あって、甲津畑の浄光寺に入寺させていただき、これまで甲津畑の皆さんにお育ていただいてきた私ですが、そこにいたるまでのことを、少しずつお話しさせていただきます。
さて、私が大学への進学について色々と悩んでいた頃のことです。一番上の兄が「お寺は自分が継ぐから、お前は自分の好きな道を歩めばいい」と言ってくれて、高校で理系クラスを選択していた私は、希望どおり鹿児島大学理学部を受験することにしました。無事、大学に合格すると、当時はいまのような学生アパートとかマンションはなく、下宿・間借りの生活でしたが、あこがれだった男声合唱団フロイデ・コールに入部し、色々と悩むこともありましたが、学生生活を満喫していました。
そんな時、父から一本の電話が入りました。当時はまだ携帯電話などない時代です。下宿のおばさんに呼ばれて電話に出ると、いきなり「鹿児島別院の○○出張所に、お盆参りの手伝いに行きなさい」と言うのです。 もちろん、まだ得度はしていません。法衣の付け方も知らないし、ましてや、よそのお宅でお勤めしたことなどありません。しかし父は「とにかく、むこうですべて用意してくれるから、言われたとおりにすればいい」と言うのです。これが、私が人生の方向転換をする第一歩となったのでした。(続く)
親鸞聖人の誕生を祝う(152号より) |
親鸞聖人は平安時代の末期、承安三年(一一七三)、京都府宇治市の近く、日野の里にお生まれになりました。昨年はそれから、ちょうど八五〇年という年でした。そして、元仁元年(一二二四)、聖人五十二歳の年、「浄土真宗」という教えを明らかにした『教行信証』をお書きになりました。ちなみに、私たちが日常のお勤めとして用いている「正信偈」は、この『教行信証』の中にある七言一二〇句からなる「偈頌」(うた)なのです。
ところで、親鸞聖人が誕生されてから八五〇年もの時が経過しているのに、なぜ毎年「宗祖降誕会」という法要をお勤めし、御誕生をお祝いするのでしょうか。それは、親鸞聖人がお生まれくださったからこそ、闇のような世界を生きる私たちに、阿弥陀さまの救いの光が、いま「南無阿弥陀仏」というお念仏の声となり、私たちの歩む道を照らし、導いてくださっている、ということが明らかになったからです。
一九二三年に作られた仏教讃歌「宗祖降誕会」には、親鸞聖人御誕生を讃え、お祝いする心持ちを、こんな歌詞で表されています。
一、闇に迷う われひとの
生くる道は ひらけたり
無漏のともし はるけくも
かかげんとて 生れましぬ
たたえまつれ きょうの日を
祝いまつれ きょうの日を
二、渇れはてにし 天地は
いつくしみに うるおえり
甘露の雨 とこしえに
そそがんとて 生れましぬ
たたえまつれ きょうの日を
祝いまつれ きょうの日を
※無漏=煩悩のまじらない智慧
生活に必要なあらゆるものが簡単に手に入り、また、インターネットの普及によって、ほしい情報もすぐに得られる便利な世の中になり、物質的には、豊かな暮らしができるようになりました。しかし、世界を見渡せば、紛争が絶えることがありませんし、国内の状況も、少子・高齢化・過疎化、そして介護・福祉・教育の問題など、将来に対する不安は募るばかりです。
けっして生きることが楽ではなかった時代にあって、いや、むしろそうであればこそ、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と願い続けられた親鸞聖人のみ跡を慕い、残された人生を悔いのないように生きていきたと思います。そして、おみのりを、しっかりと次の世代に伝えていかねばと思わずにはおれません。
南無阿弥陀仏は救いのしるし(151号より) |
ご法座のあるたび、お寺にお参りして、お勤めし、ご法話を聞きます。昔から続いてきたことだから、仕方なくお参りしている。言いにくいけど、いったい、それは何のため? そんなふうに思っておられる方は、意外と多いかもしれません。
甲津畑の地に二ヶ寺のお寺があるのは、蓮如上人がおいでになって以来、苦悩を抱えて生きねばならない私たちの生きるよりどころとして道場ができ、やがてお寺が建立されることになったからです。
道場でも、お寺になってからでも、「正信偈」をお勤めし、『御文章』に説かれた阿弥陀さまのお救いを聴聞し、最後には、声をそろえて「領解出言」する(領解文を唱える)という伝統が受け継がれてきました。しかし、時代が移り変わるとともに、その心が次第に見失われつつあるのではないでしょうか。
いま、原点に立ち戻って、お寺とはいったい何をする場所なのかを、本堂に掲示している「真宗教団連合カレンダー」三月号の「南無阿弥陀仏が、私の救われるしるしであり、証である」という言葉から、考えてみたいと思います。
皆さんは、お子さんやお孫さんに、「南無阿弥陀仏って何?」と尋ねられたら、どのように答えますか。口に「南無阿弥陀仏」とは称えてはいるけれど、いざそんな質問をされたら、答えに詰まってしまうのではないでしょうか。でも大丈夫。その意味を、自分自身の生涯をかけて、聞かせてもらう場所がお寺であり、お寺で開かれるご法座なのです。
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」とは、「あなたがどのような境遇にあろうとも、けっしてひとりぼっちにはしない。いのち終えるその時まで、ずっと、見守り、支え続け、必ず安らぎの浄土に迎え取りますから、どうか私にまかせてください」とよび続けてくださる、阿弥陀さまのよび声であると教えてくださいました。
その教えを受け継がれた蓮如上人は、「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀さまから言えば、私をよぶ「親のよび声」であり、私から言えば、阿弥陀さま(親)のよび声を聞いて安心する「子どもが親を慕う声」である、とお示しくださいました。
お念仏は、私が称えるものではありますが、その背景には「私をけっして捨てない」という阿弥陀さまのお慈悲の心がこもっていました。カレンダーの「南無阿弥陀仏が、私の救われるしるしであり、証である」という言葉は、そのことをあらわしているのです。