151号、3月2日発行

 南無阿弥陀仏は救いのしるし(151号より)


ご法座のあるたび、お寺にお参りして、お勤めし、ご法話を聞きます。昔から続いてきたことだから、仕方なくお参りしている。言いにくいけど、いったい、それは何のため? そんなふうに思っておられる方は、意外と多いかもしれません。

 甲津畑の地に二ヶ寺のお寺があるのは、蓮如上人がおいでになって以来、苦悩を抱えて生きねばならない私たちの生きるよりどころとして道場ができ、やがてお寺が建立されることになったからです。

 道場でも、お寺になってからでも、「正信偈」をお勤めし、『御文章』に説かれた阿弥陀さまのお救いを聴聞し、最後には、声をそろえて「領解出言」する(領解文を唱える)という伝統が受け継がれてきました。しかし、時代が移り変わるとともに、その心が次第に見失われつつあるのではないでしょうか。

 いま、原点に立ち戻って、お寺とはいったい何をする場所なのかを、本堂に掲示している「真宗教団連合カレンダー」三月号の「南無阿弥陀仏が、私の救われるしるしであり、証である」という言葉から、考えてみたいと思います。

 皆さんは、お子さんやお孫さんに、「南無阿弥陀仏って何?」と尋ねられたら、どのように答えますか。口に「南無阿弥陀仏」とは称えてはいるけれど、いざそんな質問をされたら、答えに詰まってしまうのではないでしょうか。でも大丈夫。その意味を、自分自身の生涯をかけて、聞かせてもらう場所がお寺であり、お寺で開かれるご法座なのです。

 親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」とは、「あなたがどのような境遇にあろうとも、けっしてひとりぼっちにはしない。いのち終えるその時まで、ずっと、見守り、支え続け、必ず安らぎの浄土に迎え取りますから、どうか私にまかせてください」とよび続けてくださる、阿弥陀さまのよび声であると教えてくださいました。

 その教えを受け継がれた蓮如上人は、「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀さまから言えば、私をよぶ「親のよび声」であり、私から言えば、阿弥陀さま(親)のよび声を聞いて安心する「子どもが親を慕う声」である、とお示しくださいました。

 お念仏は、私が称えるものではありますが、その背景には「私をけっして捨てない」という阿弥陀さまのお慈悲の心がこもっていました。カレンダーの「南無阿弥陀仏が、私の救われるしるしであり、証である」という言葉は、そのことをあらわしているのです。